風を切り、藍の影が森を抜けていく。
「藍! そっち行った!」
 木々の間を縫いながら地を駆ける影が、幼いながらもしっかりとした声を張る。斜め前を少し離れて飛んでいた藍の影は、それに呼応して速度を上げ、進路を変えた。
 くぼんだ段差を軽々と飛び越えた娘は、そのまま腰の袋から石を取り出し、握りしめる。後頭の高い位置でまとめた髪が風に流れていく。泥も気にせず走ったあとには、裸足の跡が残った。
「なんだ?」
 木の上でその騒ぎを目にした妖が、過ぎて行った後ろ姿を見る。
「ありゃ人の子じゃないか」
「ああ、あの娘か」
 傍らにいた三匹が揃って同じ方向を見た。そして、地を駆けていった見覚えのある姿に合点する。
 この辺りに住んでいる妖なら、もうたいていの者が知っていることだ。むしろ知らないでいたほうが不思議なほど、その人の子は毎日のように人の立ち入らないこの山にやってくる。そのそばにはいつも藍色の妖鳥がいることも、もはや馴染んでしまって違和はない。
 ただ、娘と妖鳥の関係性については未だ周知ではなく、個々の推測にすぎなかった。
「藍の鳥の娘だな。大きくなったなぁ」
「娘ぇ? 馬鹿な。飼っている餌ではなかったのか?」
「そうだ、いずれ食うためと思っていたが……」
「死にかけているのを拾ってやって育てとるんだろう? かれこれ五年は経つぞ。食うならとっくに食っとるだろう」
「それはそうだが」
「食うためなら巣に囲っておけばよいだろうが、あの娘、市にもよく来とるぞ」
「いや、待て待て。餌でないなら何故、あの藍の鳥が子育てを?」
「知るかそんなもの!」
「嫁にでもするんじゃないのか?」
「そもそも妖が人間を育てるなんぞ聞いたことがない」
「何を言う。西の六ツ山では天狗が童を育てておっただろう」
「あれは鬼の子じゃろうが。話が違うわ」
 妖たちは、一度口をつぐんで、それぞれに居住まいを正した。知らないことを言い争っても仕方ない。
「――しかしなぁ、いくら女といえど人の子じゃあなぁ……。手懐けてどうなるものでもないだろうに」
「今の時分はともかく、“見える”のもいつまでやらわからんしなぁ」
「まったくだ。藍の鳥も物好きなものよ」

「ねえ、藍。どうして逃がしたの? しかも魚まであげて」
「魚の一匹くらいどうということはない」
 魚を奪って逃げた大ねずみを捕まえはしたものの、藍の鳥は見逃した上、魚をくれてやったのだ。先程、森を疾走したのはその捕り物のせいだが、無駄な体力を使わされた気分だ。
 それに、盗っ人を捕まえたら二度としないように腕を切るものだ、というのをカヨは問屋をしている黒狐の女将さんに聞いたことがある。
 それを言うと、藍の鳥は困った顔をして溜息をついた。
「商売人の品に手を出せばそうなる。……あまり女将たちの言葉を鵜呑みにするな。商売人というのは気が荒すぎる。真似するものではない」
 そこで藍の鳥が身をかがめたので、カヨはすかさず背に回って飛び乗った。首に腕を回すのと、藍の鳥が本性に戻るのは同時。何年も続けていればもう慣れたものだ。
 ぐっと体が押さえつけられる感覚は一瞬のことで、すぐに森の涼しい風が頬や髪を撫でる。
 木々の合間を縫って飛ぶのはやっぱり好きだ。
 ただ最近はカヨも大きくなったので、その分藍の鳥に負担がかかっていることが心配だ。この前、ためしに「重くない?」と聞いてみれば、遠慮なく「多少は」と返されたのだから余計に気になる。
 あたしにも羽があればいいのに。
 近頃、そんな願いばかりがカヨの頭をよぎる。

 カヨが藍の鳥に拾われて早五年。五年前の夏の終りに、藍の鳥の本巣へやってきてからは天狗山に戻ることはなく、ずっとこの山で暮らしている。カヨはすっかり山に馴染み、人ならざる者たちとも打ち解けていた。
 人の童は美味いらしく、始めのうちこそ他の妖に食われそうになったこともしばしばだったが、その度に藍の鳥に助けられているうち、今ではすっかりそれもなくなった。藍の鳥の顔馴染に至っては、カヨが人であるにも関わらず優しく接してくれる。
「あ、思い出した! あのね、藍。女将さんがね、あたしが今年で十三だから、祝いにツゲの櫛をくれるって! 十三で成人なんでしょ?」
「ああ、まあな。妖の間ではそうだ」
「河童のおじさんもね、水かきをやろうって言ってた!」
「もらってどうする。いらんだろう」
「泳がないもんねぇ……。どうせなら、あたし、藍みたいに羽がほしいなぁ」
 今度、夏が過ぎればカヨは十三になる。
 妖の世界では十三という年がひとつの区切りだそうで、顔見知りたちは祝いの品にはあれをやろう、これをやろうと言ってくる。宴会を開こうとも言ってくれたが藍の鳥が許さなかったため、せめて贈り物をと気遣ってくれているのだ。
「蜘蛛女郎の姐さんは酒をくれるって。あたし、酒飲むのは初めてだなあ」
「妖の酒などお前には飲ませんぞ」
「えーっ! ケチ!」
「やかましい。一口でぶっ倒れるぞ」
「それもやだ! ――う、わっ!!」
 喚くカヨを黙らせるように藍の鳥が急降下した。驚いたカヨはとっさに口をつぐんで藍の鳥にしがみつく。
 落下独特の浮遊感に相変わらず肝が冷えるが、振り落とされることは絶対にないと知っている。案の定、藍の鳥はすぐに上昇し、小刻みの振動が体に伝わった。かすかな笑い声が耳元で鳴る風に紛れて聞こえる。藍の鳥につられるようにカヨも可笑しくなってきて笑った。
 ああ、次の満月が楽しみだ。

〜 * 〜 * 〜 * 〜

 それから数日したある日、いつものとおりカヨが藍の鳥の背に乗って、ともに悠々と空を飛ぶ最中のことだった。
「おーぅい! 藍の鳥どの!」
「藍、読み売りだ!」
 呼び止める声のした方向へ振り返ると、木の上で大きく両手を降る妖がいた。読み売りの灰鼠だ。本当なら辻店が並ぶ谷のあたりにいるはずなのに。何か事件だろうか。
 カヨが叫んで肩を叩けば、藍の鳥は旋回してそちらへ向かった。藍の鳥が木の枝に止まるのに合わせて上から灰鼠が下りてきた。
「ああ、藍の鳥どの。お知らせが」
「なんだ」
「何かあったの!?」
「おっと、娘さんもご一緒ですか。いえいえ、事件などではなく……」
 灰鼠は、頭に巻いた手ぬぐいを押さえつつ、袖口から木の葉を取り出した。何かごにょごにょと書かれているが、カヨは字を読めないので灰鼠の言葉に耳を澄ました。
「たしか、藍の鳥どのは、桜が丘の大桜さまとは懇意な間柄だったと……」
「それが、どうした」
「桜が丘から伝聞するところでは、なんでも大桜さまに回生の兆しがあったらしく、幹や枝に徐々に命が戻ってきているとか。まだはっきりとはしませんが、大桜さまのご友人たる藍の鳥どのにはお伝えせねばと思いまして」
 藍の鳥の肩が強張ったのが、カヨの手にも伝わった。カヨは灰鼠の手元から目を離して、肩越しに藍の鳥の顔を覗き込む。表情はいつもとあまり変わらないが、なんだか深刻そうだ。
「花雪が……」
「藍?」
「いや……そうか。わかった。わざわざここまですまない」
「いえ。また何か知れましたらばお伝えします」
「ああ。頼む」
 それから黙って難しい顔をしたままの藍の鳥は、カヨが何を話しかけても言葉を返してくれなかった。そして、巣に帰ってカヨと荷物を背から降ろすと、そのまますぐに出かけると言った。
 今日は、南の方の森へ連れてってくれる約束だったのに。
「雨降りそうだよ? やっぱり行くの?」
「お前は留守番だ。大人しくしていろ」
「……はぁい」
 夜明けは綺麗だったのに、日が昇り切った空は暗い雲がのしかかるように覆っている。
 巣の入り口から遠くなる背中を見つめて、カヨはただ雨が降らないことを祈った。

 桜が丘へは、久々にやってきた。カヨを拾って以来、ここに近づくことすらせず、本巣へ移ってからは、それまで毎年のように使っていた春の間の巣にも来なくなった。
 あれは元々、花雪のもとへ訪れやすいようにと作ったものだから、花雪が枯れてしまったのでは使う理由もなくなったのだ。
 数年ぶりに訪れた桜が丘のふもとの村は、もうほとんど戦前の状態に戻っていた。
 大桜と桜並木とが枯れていなければ、そこは戦があったことなど思わせないだろう。
「花雪……」
 藍の鳥は、静かに大桜の前に降り立った。
 ああ、たしかに。あの時は枯れたと思った木に、今はわずかながら命がある。けれども、それはとても儚い。少しのことでまた枯れてしまうだろう。
 藍の鳥は恐る恐る幹に手を当て、古く煤けた方のしめ縄をなぞった。このしめ縄も、戦の証だ。
 見る限り、村人たちは手を尽くしたようだ。血に穢れていた土も木も清められている。あとは、花雪の生命力を信じるしかない。
「花雪……もしお前がいたなら、お前に話したいことがある」
「あの日、ここで拾った娘のことだ」
 花雪に免じてと救ってやった命は健やかに育ち、今や独り立ちする歳になった。この世に繋いだ根は深く地に伸びて、風が吹くとも倒れることはないだろう。
 カヨは本当に強い娘だ。変に好奇心が強いことも相まって、藍の鳥たち妖を恐れぬ様はどうにも面白がられる。
 最初はあれだけ怖がった河童殿とも三度会ううちに慣れたようだし、問屋の黒狐女将も、山犬の親父殿も、今ではカヨを連れていけば喜んで相手をしてくれる。
 だから尚更なのだ。藍の鳥は、時折カヨが人であることを忘れてしまう。いつかは村へ帰さねばならんということも。
 我らの世に深く馴染んでしまってよいことはない。そうわかっているのに。
 いつ村へ帰そうかと考えあぐねているうち、こんなに月日が経ってしまった。
「お前が聞けば、きっと笑うだろうな」
 らしくないということは、己がよくわかっている。
 情を移すつもりはなかったのに……。
 まったく、なんともやっかいなものだ。
 帰してやることはもっと前にもできたはずだが、そうすることができなかった。

 花雪。お前なら、どうするだろう。
 長く生きたお前なら、あるいは縁を断ち切る上手い方法も知っているだろうに。

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◇Photo / NOION
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