足に何かが触れた。間髪おかず隠れていた縄が勢いよく飛び出し、それに気づいた時には遅かった。
 大きな音とともに、芳妥枝(はなだえ)の左足に激痛が走る。
「いっ……!!」
 しまった。これは人が仕掛けた罠。やはり迂闊に地に足をつけるんじゃなかった。
 がっちり食い込んだ鉄の歯は、なかなか口を開けない。おまけに体には縄まで絡んでいて、捕えられた片手もうまく使えない。力が入らなかった。
 畜生、と歯を食い縛った口の中で罵る。
 さあ、どうする。体は思うように動かせない。足は千切れそうに痛い。血も止まらない。もし毒が塗ってあったらどうしようか。
 途方に暮れていたところで、木の葉を掻き分ける音が間近でした。
「カヨ?」
 男の声――人が来た!
 一度大きく跳ねた鼓動を抑え、芳妥枝は「いや、大丈夫だ」と焦る己に聞かせる。ただの人に、この姿は見えない。目に映るとすれば不自然な罠だけだ。
 だが、もし見える人だったなら……?
「カヨ、お前か?」
「あ……」
 ひやりとしたその時、草木の合間から姿を現したのは、人ではなかった。人ならざる者――しかも、幸運なことに同族だ。
 藍色の特徴的な衣の男は、この様を見とめて鋭い目を丸くした。
「おい、お前……!」
「助かっ、た……」
 大きな息をついて地に体を倒すと、男は急いで芳妥枝の傍らに寄ってきた。
 金色の目、髪に紛れて長く伸びる羽、同じく羽の飛び出した袖……。同胞であることの証にこの上ない安堵を覚え、体の強張りが幾分ましになった。
 手際よく、男の鋭利な小刀が縄を切っていく。ちらりと視線が寄越された。言外に責められている。
「お前、どうして地に降りたのだ」
「そこに、鳥がいたのだ……。小さな鳥が……」
「……ああ。だが、あれは人が作った囮だ。……もう手遅れだ」
 ああ、そうだったのか。助けてやろうとしたのに、とんだ醜態を晒してしまった。
「むごいことを……」
「……罠を取る。少し痛むぞ」
 じくりと傷が痛む。けれども、感覚自体がなくなりつつあった。
 傷にこれ以上の負担をかけないようにと慎重にゆっくりと葉が抜ける。かわりにまた血が溢れた。
 芳妥枝の足から外したそれを、男は地に放り投げた。がちゃんと固い音とともに歯を噛み合わせ、地に転がるそれを目で追って、ほっとしたのも束の間。傷に触れられて悲鳴が出た。
「思ったより傷が酷いな。少し待てるか」
「え……? おい、何を!」
「すぐ戻る」
 男は芳妥枝を担ぎ、近場の木の上に残すと去ってしまった。
 息をつき、痛む場所を見れば、傷を負った箇所は布で縛られていた。
「早く頼む……」
 独り呟き、芳妥枝は目を閉じた。汗が頬と背を伝って不快だった。

「……し……、……これで良いじゃ……あ……」
「……え…のは……か……」
 声に導かれ、閉じていた瞼を押し上げた。
 薄暗い……もう夜になったのか?
「おう、目ぇ覚ましたのぅ。娘っこ」
「……?」
「よしよし、今終わったとこじゃい。気ぃやってる間にな」
 ぬっと目の前に現れた、ぼさぼさの白髪に覆われたしわだらけの顔が、にかりと歯の抜けた笑みを見せた。骨と皮だけに痩せた爺だった。
 爺の顔が視界から引っ込んだかと思うと、反対側からあの男が覗き込んだ。
「平気か?」
「あ、ああ。……ここは?」
「あの爺の棲み処だ」
 体を起こす芳妥枝を手伝ってくれながら男は答えた。
 傷を負った足は草と木の皮を巻かれ、縛って固定されている。あの爺がやったのか。
「年老いた猩猩で、薬に詳しい。腕は確かだ」
「そいつが小鳥の時にゃ、よく世話してやったもんよ」
 カカカと笑う声を耳にしながら、なんとはなしに辺りを見回す。どうやら木の上に作った家のようだった。枝を組んで床と壁をつくり、屋根として草葉を葺いただけの簡素なものだ。
 猩猩の爺は、挽きあがったばかりの粉を小さな器に取り、竹筒と一緒に持って来た。
「飲みな。ほれ、こっちは水」
「すまない」
 受け取って、言われるままに薬を飲んだ。
「運が良かったな、娘っこ。骨が見えとったじゃ。そいつが連れてこんだぁ、腐り落ちったとこよ」
 サッと血の気が引いて、顔ごと男を見た。男は頷き、同意を示す。
 口元を拭いながら器を返すと、爺はよたよたしながら元の場所に戻った。
「罠んかかるなんぞ不運じゃて。毒も塗ってあったが、ありゃ妖には利かんで安心しな」
 爺が笑みを崩さぬまま、棒切れに火をつけてふかした。あれは、人が「きせる」などと呼んでいたものか。どこかで手に入れてきたのだろう。
 男に向き直り、そのままの姿勢ではあったが、頭を垂れた。
「感謝する、同胞。おかげで助かった」
「いや、大事なくてなによりだ」
 男はそう返すと立ち上がる。爺が白の長い眉を、くいと上げた。
「なんだ、もう帰んのか?」
「じきに陽が暮れるからな。……その娘は任せる。まだ動けんだろう」
「ああ、傷が塞ぐまであと五日はかかんな」
「お、おい、あんた……!」
 爺と言葉を交わしながら出口へと向かう背に、思わず声をかけてしまった。
「なんだ」
「いや、その……」
 男は出口で振り返ったが、とっさに口をついて出ただけで何を言えばいいやらわからない。
 鋭い目がじっと見つめることに、無性に居心地が悪くなり、耐えられずにうつむいた。
「……また来る」
 一言だけ残し、男は外に飛び降りた。続いて、ばさりと翼を羽ばたく音が鳴る。しばらく、そのまま入り口を見つめることしかできなかった。
「娘っこ。あいつを気に入ったか?」
 煙を吐きながら爺がケタケタと笑った。

〜 * 〜 * 〜 * 〜

 どうにも、今の私は誰かを救わねばならん天命らしい。
 人の小娘の次は、同胞の女とは。

「あんた、名くらい教えてくれてもいいだろう!」
「必要ない。礼はいらんと言っている」
「それでは私の気が済まない!」
「そんなもの知らん」
 近頃、人の仕掛けた罠にかかったところを助けてから、この女――たしか芳妥枝とかいったか――はしつこく礼をさせろと追い縋る。
 これだけ元気ならばもう自分の巣まで飛べるだろうに。芳妥枝は手当のために連れて行った猩猩の爺の家にまだこうして居座っている。
 猩猩の爺もさっさと追い出せばいいのにそうしない。今も悠長に煙を吐きながら、笑って傍観している。
「いいんでねぇか。お前もどうせ独り身じゃろうが。嫁ん貰ってやればよ」
「嫁などいらん」
「淡泊な奴じゃのぅ……」
「帰る」
「あ、こら、逃げるな!」
「お前も早く己の巣へ帰れ」
「待てったら! おい!」
 爺の家を出ると、芳妥枝も追ってこようとしたが、藍の鳥は森の間をかいくぐって振り切った。
 いつまでも付き合ってられん。トカゲのこともあったから、カヨを一人で長く残すのも心許ない。
 芳妥枝の悔しそうな叫びが響いたが、無視をして速度を上げた。

 ああ、まったく。寄り道のつもりが、引き留められるうちに思ったより遅くなってしまった。

 夕暮れも終わりかけている。夏は過ぎ、秋が近づくにつれて日が落ちるのもずいぶん早くなった。あれほど騒がしかった蝉の声はもうほとんど聞かない。代わりに、夜に響く虫の音が美しくなっていく。
 急いで岩壁の巣に戻ると、羽音を聞きつけて奥からカヨが顔を覗かせた。元気なところを見ると留守中には何事もなかったようだ。むしろ暇をしていたのだろう。
「おかえり、藍! それは何?」
「土産だ」
 目敏くもさっそく気づいたので、藍の鳥は肩に下げていたそれを放り投げる。頭で受け取ったカヨはその感触に驚いたのか、慌てて跳ね除けると逃げるように距離をとった。
「な、なに、これ!」
「鼬と狸の毛皮だ」
「あ、本当だ、尾っぽもある! 藍が獲ったの?」
「麻織と引き換えに、山犬の親父殿に貰ったのだ。お前の布団だ」
「これが布団?」
「そろそろ朝晩は寒くなる。そのままで不便なら鼬は襟巻に、狸は羽織か肩掛けにでもすればいい。あと……」
「なになに?」
 懐から笹の葉の包みを取り出して見せると、タヌキの毛皮を背負うように腕の部分を首に巻き付けて遊んでいたカヨの目の色が変わった。
「肉も少し分けて貰った。猪と兎だ」
「やったー!!」
 腹に突進したカヨをそのままに、藍の鳥は包みを開けて猪の干し肉を一片取った。小さく裂いて、カヨに与えてやる。
 カヨは片手をばたばたと振って、言葉になっていない声を上げた。どうやら気に入ったらしい。
「美味いね!」
「親父殿の干し肉は格別だからな。人の世では食えんぞ」
「もうちょっと頂戴!」
「こら、待て。今日はこれだけだ。味わって食え」
 衣を掴んでせがむカヨに、さっきと同じ大きさの分を裂いて与える。胡坐をかく藍の鳥の膝の上を乗っ取り、カヨは上機嫌で肉を食む。
 ヒナに餌をやるのは、こんな感じなのだろうか。
 肩で揃った黒髪の頭を見ながら、ふとそんなことを思った。

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◇Photo / NOION
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