ああ、憎い。
 これほど人を恨めしく思ったことはない。
 我が大切な友を奪った、愚か者ども――。

 そこは忌まわしい鉄と死の臭いにまみれていた。未だに燻る煙が風に吹かれてやってきて、吐きたくなる臭気を体と衣にまとわせる。
 丘の上に立つ桜の古木にも、煙は無遠慮に触れていく。今はそれすら腹立たしかった。
 無残に枯れた桜は、いくらその場に留まろうとも戻るわけがない。見るに忍びない姿に知らず知らずのうちに双眸を歪め、妖はぎりぎりと歯を食いしばる。
 握りしめた手は己の鋭い爪が食い込み、ひりつく痛みを伝えていたが、身の内で狂うものに比べればまだ楽だった。
 腸が煮えるとはまさにこのことだろう。折り重なって醜い泥沼と化す激情が腹の中を支配する。溢れかえるそれは身に有り余り、外へ吐き出さずにはおられない。堪えきれずに今一度、拳で地を打とうとしたその時、がさりと近くの茂みが音を立てた。

 風が揺らしたのではない。何者かが動いた音だ。
 妖の虚ろな意識は、音のした方向へ持っていかれる。目を細めて、気配を探る。何かがいるが、動く様子はない。立ち上がり、ゆっくりと茂みに歩を進めた。
 またどこからともなく風が吹いて、何かの焦げた、また腐敗した臭いを運んだ。

 ここも金臭い。――否、これは血のにおいか。

 果たして、覗き込んだ茂みの向こうには人が倒れていた。
 人の童だ。手負いで、死に際の。一見したところ屍かと思ったが、かろうじて息がある。村の生き残りだろう。性別など見分けがつかんが、装いからしておそらく女。
 ぜいぜいと息も荒く、虚ろな眼差しが妖の目を捕えた。
「……、ぅ……っ……」
 童が口を開いた。うめき声と共に、ふらふらと地を伝うように片手を伸ばしてくる。
 気のせいではなかったか。
 どうやら人のくせに妖が見えるようだ。童には見えることが多いと聞くが……。
「……た、っ……て……」
 声になっていなかったが、童の言わんとすることはわかった。
 この人の子は、命を乞うているのだ。
「人の風情が私に命乞いか」
 妖は冷ややかに童を見下ろした。どろどろとした濁りが腹の中で渦巻いている。
 お前たち人は花雪を殺しておいて、まだ己の身は救って欲しいと言うのか。
 助けをと花雪に縋り、裏切ったのに。
 花雪のおかげで、村人は救われたのに。田畑を荒らす悪戯な妖どもは大人しくなり、人を攫い喰らっていた悪食の妖も、こうして只の鳥も同然に成り下がったのだから。
 なのに――。

 ああ、なんだ、この感覚は。

 己に問うたその刹那、重たい濁りの中から、ふいに強烈な欲が鎌首をもたげた。

 そうか、長く忘れていた。――腹が減ったのか。

 気づいてしまえば、すんなりと次の行動が頭に浮かぶ。
 目の前には肉がある。柔らかい童の肉だ。それを引き裂いて、腑をえぐるのはいつぶりか。肉を食んで骨まで啄むのは。最後にそうしたのはいつだったか。
 無意識のうちに妖は片手を開き、尖った爪の先を童に定めていた。
 殺してしまえばいい。どうせこのままでは消えゆく命。同じく死ぬなら、今すぐ喰ったところで何の問題もない。
 童はまだ何かを伝えようと口を動かす。ただ息が漏れるだけで、声にはならない。
 必死に生きようとする命を嘲笑うように増す食欲。
 けれども、それに歯止めをかけるものがあった。

「藍の鳥」

 昔の妖なら、この童をこのまま喰っていただろう。鉄と火薬などという不味い臭いにまみれているが、飢えた腹を足すには臓腑だけでも構わない。迷うことなく、爪を立てたはずだ。
 なのに……。

「わたしは人の子が愛おしい」

 花雪。
 またお前は……。

「藍の鳥、そなたのことも愛おしいのだよ」

 花雪。
 ふと視線を横へ向ければ、大桜が風に枝を揺らしている。
 曇った空。煙る風。汚れたしめ縄に焼けた紙垂。花のない枝。命の感じられない木肌。
 見る影もない、哀れな姿だ。

「だから、そなたが人の子を喰うのは悲しい」
「勝手なことを」
「そうだね。とても身勝手だ」

 ああ、そうだ。あの目。人から溢れて手と衣を汚した紅を見た、花雪の目。
 己のことではないというのにあれほど苦しげで、悲しげで、妖に自責の念を抱かせた目はなかった。
 鮮やかに脳裏によみがった貴人の姿に、欲は急速に失せていく。

 ああ、花雪。お前は、私が人を喰うといつも悲しい顔をした。その顔を見たくないがために、私は人を襲うのを止めたのだった。

 そうしたなら、いつも身の内に滞り溜まっていた毒々しい「何か」が徐々に抜けていき、いつのまにか狂おしい衝動もおさまった。
 一度、人の味を覚えてしまうと、どうしても人を喰いたくなる時がある。心の荒ぶる時は殊更に。

 けれど、花雪。枯れてなお、お前は私に人を喰わせんつもりなのだな。

「お人好しの数寄者め」
 振り上げた爪をゆるゆると下し、桜から目を逸らして俯けば、童の姿が目に入る。
 童はもう、喋る気力もないらしい。浅い呼吸を繰り返し、ただ閉じそうな目を懸命に開いて妖を見つめている。
「花雪に免じて、救ってやろう」
 妖――藍の鳥は、一度は殺すために振り上げたその手を、人の子に差し伸べた。

「童。目が覚めたのなら狸寝入りなどするな」
 身を縮める背に声をかけるとその体が大袈裟にはねた。それでもまだ起きようとはしない。
 ああ、まったく。
 嘆息して、藍の鳥は手元に視線を戻した。見つめるだけ無駄だろう。
「取って食いはしない。もうじき薬ができるからさっさと起きろ」
 視界の端で、もぞりと童にかけてあった衣が動いた。恐る恐るといった体で、ゆっくりと童はこちらに寝返りを打つ。
 見やると目が合ったが、童は慌てて顎を引き、目を逸らした。
「…………」
「…………」
「……起きられんのか」
「っ!」
 黙ったままだが、童の挙動が変わった。
 傷が痛むのか、力が入らんのか、どちらにせよ自力では無理なら仕方ない。
 藍の鳥は薬を擂る手を止めて立ち上がった。奥の寝床に近づくにつれて童の目が大きく開き、縮こまって怯えるので、また嘆息する。
「そう怯えるな。害はなさんと言っている」
 そもそも私に命を乞うたのはお前だろうに。
 そう聞かせて、傍らに屈みこみ、童に手を伸ばす。しかし、その手を見た童は小さな悲鳴と共に、ぎょっとして身を引いた。
 ああ、しまった。この手は恐ろしいのか。
 藍の鳥は、鳥の足の成りをした手を見た。確かに、人の子からすれば異形の手だ。
 ……しかし、こればかりは仕方がない。人型をとってもこの手だけはどうにもならん。
「……ほら。これならばいいだろう」
 手を袖の中しまい、もう一度差し伸べる。どうやら袖から飛び出た羽に気を奪われたらしい童は、その腕が己の体を起こすのを黙って見ていた。体は強張ってはいたが。

「ここは、どこ?」
「私の巣のひとつだ。お前のいた村から南へ三里の山にある」
「南……天狗山?」
「ああ、人はそう呼んでいたな」
 水を飲ませてやり、ようやく童は口が利けるようになった。
 何を境にか知らんが畏怖は失せたらしく、またよく喋る。
「お山に天狗は本当にいるの?」
「当たり前だろう」
「え、ほんとに!? 人を攫って食うの?」
 童は好奇に目を丸くさせ、振り返る。まだ傷を見ているというのに。
「知らん。――動くな」
「痛っ、ったい!!」
「だから動くなと言った。……天狗の好物が人かどうかは知らんが、深山の妖の中には人を喰うものもいる」
 思ったよりも丈夫そうな童だ。背中の傷は思いのほか浅かった。薬をつけていれば数日中に塞がるだろう。藍の鳥が先ほど作った薬を塗り広げると、染みるのか童が息を詰めた。
「……ねえ、妖さんも、私を食うの?」
「お前は喰わんと幾度言わせる」
「そっか。――ねえ、妖さん」
「なんだ。もういいぞ」
 肌蹴た衣に袖を通す童を尻目に、余った薬を貝の薬入れに収める。手を拭っていると、童が恐る恐ると身を乗り出した。
「名はなんていうの?」
「訊いてどうする」
「呼ぶときに困るから……。あたしはカヨだよ」
 おかしな童を拾ってしまったものだ。危機感があったのは初めだけ、あとは物怖じもせず名まで名乗るか。
「妖さん、もしかして名がないの?」
 黙っていたせいか、童は申し訳なさそうにそう眉を垂れた。
「……藍の鳥、と。みなは呼ぶ」
「あいって、色の? 藍染めの?」
「そうだ」
「藍色が好きなんだね!」
 藍の鳥の深く鮮やかな衣を見て、童は屈託なく笑った。

〜 * 〜 * 〜 * 〜

 藍の鳥が人である女の童を拾って早くも十と五日が過ぎた。
 童――カヨには、親がいないらしい。老いた婆と暮らしていたものの、足の悪いその婆もあの戦火にまかれ、家もろとも焼かれたと言っていた。
 どうやら死にかけていたのは背中の傷のせいだけではなく、飢えていたかららしい。あそこで行き倒れるまでの数日、ろくに食べていなかったと。おかげでよく食う。
 齢は八。まだ子も産めぬが、たとえ嫁にいける年だったとて仲を誓う相手もいなければ、戦の後で身寄りも一銭の財もない娘を娶ってくれるような者もいまい。
 戦はまだ終わっていない。戦で廃れた場には賊が来る。人が戻り、再び村になるにはまだ時間がかかるだろう。
 せっかく助けてやったのに、このままあの地へ返して、殺されたり身売りなどされたりしては堪らん。
 さて、童を村に帰してやれるのは何時になるやら。

「おい、まだか」
「待って!」
「早くしろ。どうせこの辺りに人は来ない」
「でも……」
「見られたくないのなら早く済ませればいい。ぐずぐずしていると飯が食えなくなるぞ」
 にしても、まったく面倒な童だ。
 覚束ないもののようやく動けるようになったカヨを連れて、今日は近くの川に来ていた。行水をさせるためだ。
 巣に連れ帰って五日目にして、藍の鳥はカヨのまとう血と火薬と鉄の臭いに堪えられなくなった。あの臭いはそうそう消えるものではない。気が触れそうになる前になんとかしたくもあったし、汚れたままではカヨも不快だろうと代わりに体を清めてやろうとしたのだが、カヨはそれを頑なに拒んだ。曰く、「ばあちゃんがだめと言った」と。女子は気安く肌を見せたり触れさせたりしてはいけないのだと。
 いったい今更何を言うのか。毎日毎日、背中の傷を見て薬を塗ってやっているのが誰だと思っている。
 馬鹿馬鹿しいと鼻で笑った藍の鳥だったが、カヨも強情だった。結局は藍の鳥が根負けしたのだ。あの高い声で喚くとうるさい。仕方なく動けるのを待ってやって、こうして川まで連れてきてやれば、今もまだ人が来はしないかとぐずる始末だ。
 川から茂みを挟んだ木の根元に座り、藍の鳥は腕を組んで幹に背を預けた。思わず深い息をつく。
 乳臭い貧相な体で何を言うのだ。童のくせに。どこぞの名主の女君ならいざ知らず、田舎娘など一昔前は平然と水浴びしていたというのに。
「ひゃあああっ!!!」
「なんだ」
 突然の奇声がしたかと思えば、カヨが裸のまま飛び出してきた。その髪や体の水が飛んできて、藍の鳥は思わず顔をしかめる。
「何かいた! 水の中に何か!」
「魚だろう」
「違うの! ギョロって、目っ……びよーんって、手があって!」
「なら河童だ」
「河童!?」
「……それよりも、お前、衣はどうした」
 訊ねると、事の大変さを伝えようと振り回していたカヨがぴたりと動きを止めた。
「あ、ああっ、置いてきたっ」
「…………」
 よほど驚いたのはわかるが……。
 忘れてきたのならば、もう少し隠すなどできんのか、この小娘は。あれほど嫌だのなんだのと騒いでおいて……。
「あ、え、どうしよう!」
「取ってこい」
「や、やだ! 尻小玉抜かれる!」
「ならそのままでいるか?」
「やだ!」
「ならば取ってこい」
「やぁだぁああ! 藍、取って来てよ!!」
「小娘が私を使うのか」
 カヨが泣きそうに顔を歪めて地団太を踏む。腕を振るたびに水が飛んできて、自然と眉間にしわが増えた。
 だいたい尻小玉とはなんだ。肝のことか?
「いいから早く行ってこい」
「うー……、じゃあ一緒に来て!!」
「なぜ私が……」
「来てってば! お願いお願いお願いお願い――」
「やかましい。ああ、まったく面倒な……」
 袖をつかむ手を払って立ち上がり、茂みを越えれば、近くの川岸の草の上に衣が無造作にあった。
 ひっ、と小さく悲鳴を上げ、後ろについてきていたカヨが背に縋る。視線の先には、緑の生き物……川から半身を覗かせ、珍しそうに衣を手に取る河童がそこにいた。
 ただし、河童といってもここの川は小さいほうなので、身の丈はカヨと大して変わらない。
「おい、河童殿。その衣を返してくれんか」
「ありゃあ、藍の鳥の兄さんじゃないか。こりゃ兄さんのもんか?」
「この童に着せるものだ」
 背後をちらりと見やれば、カヨが顔を覗かせている。やはり怖いらしく、藍の鳥の腿のあたりの衣をしっかと握られている。
 藍の鳥につられるように、河童の視線が下に――カヨへと落ちる。河童は驚いて目をぎょろっと見開いたが、それもまたカヨを怖がらせた。
「さっき見た人間の娘っこ! ははぁ、どうりで匂いが混じっていると思ったら……」
 衣を掴むカヨの手が引き留めようとする。それを無視して河童に近づき、カヨに渡していた真新しい衣を受け取ると、藍の鳥は脱ぎ捨てられていた腰巻と一緒に背後に放った。立ちすくんでいたカヨが我に返り、慌ててそれを着る。
「娘っこにあの衣を?」
 不思議そうにこちらを見上げながら河童が呟くが、藍の鳥はあえて黙殺した。
 あれは人間の持つような代物ではないが他になかった。はじめにカヨがまとっていた衣は汚れと臭いでもう着られまい。古い衣はあとであの村に捨てに行くつもりだ。
「まあ詮索は野暮ってもんか。兄さん、また今度、碁打ちの相手をしてくれや」
「ああ、私でいいなら。……行くぞ」
 ここへ来た時と同じようにカヨを背負い、藍の鳥は本性に戻って飛び立った。
 さて、これから童の飯を用意してやらねば。
「童」
「ん、なあに?」
「人は何を食べるのだ」
 今まで果物を採ってやっていたが、そろそろ身になるまともな物を食わせねばなるまい。
「んっと、(あわ)とか(ひえ)とか、芋とか瓜とか」
「獣や魚は食わんのか」
「食うよ。あたしは(しし)と鮎が好き!」
「なら魚にするか。獣は獲れるかわからん。機会があれば食わせてやる」
 後ろではしゃぐ声を聞きながら、藍の鳥はさらに山深い沢へと向かう。この辺りならば人は立ち入らないし、魚もよく獲れる。
 そこで、ためしにカヨに魚を獲らせてみたが、これが下手で役に立たない。魚を追い回すだけ追い回し、水で遊ぶばかりだ。
「遊んでいないで少しは捕まえろ。お前の飯だぞ」
「生簀の魚ならつかめるけど、川じゃ無理だよ。すばしっこいもん」
 悪びれもせず唇を尖らせたカヨは、ばしゃばしゃと水を蹴りながら藍の鳥のもとへとやってくる。時折ふらつきながら流れに逆らって駆けてくる姿が、なんとも危なっかしい。
 あまり気を抜いていると足を取られて転ぶぞ。そうでなくとも衣が濡れるだろう。
 藍の鳥の危惧など知らず、やってきたカヨは岸に手をつくと、やはり水を蹴って遊びながら目を輝かせた。
 岸には藍の鳥が捕まえた魚が何匹か、尾をまとめて縛ってある。
「藍、すごいね。大漁だ!」
「今日はこれで足りるな」
 にしても、この童はずいぶんと甘やかされて育ったらしい。

 魚の掴み方くらい教えておかねばならんな……。

 遊んだおかげで足も手もしっかり濡れて冷えたカヨをおぶると、藍の鳥は、今度はゆっくり巣へと向かった。

(おまけ) * * *

 カヨの話を聞いて、藍の鳥はわずかに顔を歪めた。
「焼かねば食えんのか」
「そのままはだめだって、ばあちゃんが言ってたもん。腹下すって」
 つまり煮るなり焼くなり蒸すなりしろと。そのためにわざわざ火を熾せと。……ああ、その前に薪を集めねばなるまい。
 藍の鳥は密かに嘆息する。

 人の子とはなんと面倒な生き物だ。

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◇Photo/ NOION
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