ああ、季節が廻る。
 長く長く、幾百の歳をここで過ごして、はて何度であろうか。
 命が芽吹くこの春に、新たな人々と出会うのは――。

咲花(さか)さま」
 若い女が一人、足元に来た。緑の着物がよく似合う、濡れたような美しい黒髪の女だ。この女はよくここへ来ていたので、覚えている。
 名はトヨだ。齢は二十と少しであったか。幼い頃は体が弱く、母親がいつも「娘が元気になるように」と私に手を合わせに来た。年頃になって体は強くなったが、今度は「良いお相手が見つかるように」と、やはり母親は手を合わせに来ていた。
 嬉しそうに頬を染めたその顔は、この数年見ぬ間に、いつの間にか大人のものになっている。
「咲花さま、お久しぶりです。トヨを覚えていますか」
 もちろんだとも。
 そなたが初めてここへ来たことも思い出せる。母親と共に、私に顔を見せに来てくれた。
 顔立ちは大人になっても、明るく光のさすような笑みは、やはり幼い頃から変わっていない。トヨが笑うと、いつも自然と私の頬も緩むのだ。
 ああ、けれど、あの頃はまだ弱々しかった命は、今はとても力強い。
「今日は咲花さまにご報告に参りました。私、子を授かりました」
 心からの笑みを浮かべ、トヨは大事に抱えるように、そっと腹に両手をやった。ふっくらとした半纏(はんてん)でわからなかったが、その腹は膨れている。
 そうか……。
 無事に相手が見つかったのだな。それも心許せる良い相手が。
 行き遅れるのではと心配していたよ。そなたの母がいまだに手を合わせに来るから。
 そうか、そうか。あれは腹の子のためであったか。
「咲花さまのおかげです。体が強くなったのも、お相手が見つかったのも、私が子を授かれたのも、咲花さまのおかげです」
 トヨは深く頭を下げた。
「咲花さま、ありがとうございます」
 私は何もしていないよ。それはみな、そなた自身の力だ。
「咲花さま、トヨを祝してくれますか」
 もちろんだとも。そなたが幸せならば、私も嬉しい。
 腹の子が丈夫に生まれるよう、元気に育つよう、私もここで願っているよ。

 トヨ、おめでとう。

 人の子とは不思議なものだ。

 遥か昔、この地に生まれ育った時、人々は私をただの桜としか思わなかった。
 それが百年、二百年と時を経れば、何処の誰がつけたのか、咲神(さがみ)という名らしい名を呼ばれるようになった。
 花を咲かせた私の周りで、集まる人々は歌を詠み、宴を開いては酒を酌み交わし、飽くことなく夜通し舞った。

 咲神桜(さがみさくら)と呼ばれて、また幾百年。人の子らの間で私は咲花御(さくかみ)と名を変えていた。
 その頃に、近くの村の者たちが高名な祈祷師を連れてきて、私に白い紙のついた縄を巻いた。それが「しめ縄」というのだと、尊いものとして祀る証だと教えられたのはすぐのこと。

「しめ縄などつけている桜で首を吊ろうとしても無駄ね。ごめんなさい、咲花御さま……っ」
 千切れた縄を枝にかけたままの私を見て、流行り病に夫と子を亡くした女は泣きながら笑った。

 また幾百年経ち、今、人々は私を咲花御前(さかごぜん)と呼ぶ。親しんで咲花と呼ぶ者もいた。トヨもその一人だ。
 私の前から村まで路をつくり、路の左右には桜が植えられた。今ではみな育ち、この季節に桜並木は人で賑わう。遠くより私を見に来る者も多くなった。

 そうして、気づけば長い月日が経っていた。
 幼い私を見とめて世話をしてくれた男の顔も、今はおぼろげにしか思い出せない。だが、装いも言葉遣いも異なっていたのに、私の花を見て綻ぶ顔は、不思議なもので、いつの世も同じであった。
 私でさえ数百年前のことは薄らいでゆく。命短い人の子が世代を経れば、記憶など曖昧になってゆくのだろう。ゆえに私を呼ぶ名も変わってゆく。
 なのに、なぜ私を愛でるその眼は変わらぬのか。

 夜、膨れた蕾のひとつに手を伸ばし、私は目を細めた。月明かりに柔らかく浮かび上がる白は、どれも豊かに丸くなり、ふとした拍子に溢れそうだ。
 私は静かに目を閉じ、月夜を駆け抜くまだ肌寒い風に身をゆだねた。

 ああ、もう蕾は綻び始める。
 春が来た――。

 私の花が満開になった頃、桜並木を通ってトヨがやってきた。腕に生まれたばかりの乳飲み子を抱え、伴侶となった男を連れて。

「咲花さま。無事に生まれました」

 くるみの中の子の顔を私に向けて、トヨは笑った。

「名をハルとつけました。咲花さまの花が美しく生まれる春に、この子の命も世に生まれました。咲花さまのご加護を賜れればと」

 ハル。命の芽吹く春。
 桜の花のように、美しい娘に育ちますよう――咲花さまのように人々に慕われますよう――。
 トヨの想いが溢れている。

 私はそっと子に近寄る。風に吹かれ、白い花の数枚がひらひらと散っている。
 トヨは幸せそうに子を抱く。そばでは男が穏やかに二人を見つめる。
 陽が暖かく包む中、赤子は健やかに眠っていた。

〜 * 〜 * 〜 * 〜

「咲花さまー!」

 今日もまた来たか。

 幼い女子が袖を揺らし、並木道を駆けてくる。
 トヨが毎日のように赤子を連れてきていたあの春から数年。毎年毎年、春になり私の花が咲きだす頃に姿を見せるハルは、病など患うことなく丈夫に育っていた。村の腕白な男子も蹴散らす勢いの豪胆な娘に。
 病弱であったトヨとは大違いで、それは喜ばしい限りではあるが、また、今度はトヨが「ハルによい貰い手が……」と頼みに来るのではないかと心配になる時がある。
 気丈でもあって、よく口争いをするようだ。目の前で男子と取っ組み合いに至った時は心底困った。私に喧嘩を止めるすべはないから。双方怪我をしまいかとひやりとさせられた。

 私の足元まで来たハルは幹に両手をついて、こちらを見上げた。何かを探るように、丹念に枝の間を覗きこむ。

「咲花さまー?」

 しばらくして、ハルはつまらなさそうに頬を膨らませ、眉を垂れてしまった。落胆の溜息と共に、見上げるのをやめてこちらに背を向けると、そのまま根元に腰を落とす。

「やっぱり今年もいない」

 ハルは、私の姿を探しているらしい。桜の木としての姿ではなく、人の形をした姿の私を。

「咲花さまは絶対にいるのよ! ハルは見たんだもの!」

「お母さん、ハルが赤子の時にここに来たでしょう? その時に、桜の花の中からハルに笑ってたの! 本当よ!」

 前に、まだハルが七つにもならない頃に、トヨにそう言っていた。あれ以来、ハルは花が咲き始めてからすべて散り終えるまで毎日こうして必ずやってくる。

「咲花さま、いるなら姿を見せてくれてもいいのに……」
 ぽつりと呟く背中が小さく丸まる。

 ここにいるよ。そなたが気づかぬだけで。

 いつものように、私は枝を少し揺らして、うつむくハルの頭上に花吹雪を舞わす。そうするとハルは顔を上げて幹にもたれかかり、嬉しそうに、さきほどまで膨れていた頬を綻ばせる。見上げてくるその顔はトヨとよく似ているのだ。

「咲花さま。私、もう一度でいいから咲花さまに会いたいなあ」
 ハルは笑んだまま、まぶしそうに目を細める。

 私はここにいるのだよ、ハル。そなたのすぐ目の前、枝の分かれるところに。

「会ってお話してみたいな」
「……そうだね。私もだ」

 私も、人の子と話してみたい。
 幾年を経ても変わらずに私を愛してくれる、不思議なそなたたちと。

「そうしらたね、ハルはいっぱいお話するね。咲花さまにいろんなお話を聞かせてあげる」
「そうか。それは楽しみだ」
「……あ、でも……。咲花さまは長生きだから、きっと、ハルの知らないことも、ハルの話よりずっと面白いことも……いろいろ知ってるんだろうなあ」
「ハルが知りたいならば、私もいろんなことを話してあげよう」

「……咲花さまに会いたいなあ」
 ハルが目を閉じ、独り言ちた。

 ああ、こうして見つめてもハルと眼差しが合うことはない。私の言の葉は届かない。
 この眼差しが交わったならば――。
 この声が届いたならば――――。

 ハル。そなたはどんな顔をするのだろうね?

 世の中の空気が悪くなり始めたのは、その翌年、私の花が散り、葉がつきだした頃であった。
 村から流れてくるのは穏やかとは程遠い、張り詰めた人の想いばかり。
 また戦があるやもしれぬ。この空気は戦乱の前の気配。人々の想いは不安に濡れている。

花雪(はなゆき)、花雪。人がまた戦をするようだ」
 (あい)(とり)が私の枝に止まって、静かに言った。

「ああ、そのようだ。村はずっと翳っている。このまま闇にのまれてゆきそうだ」
「今度の戦は、今までの小競り合いとはわけが違う。人の世を変えてしまう大戦やもしれぬと山神たちが噂していた。もしかすると我らの身にも災いするぞ」
「そうだね。けれど、私は構わぬよ。もう長くこの地にいた。この身はいつ朽ちるともわからぬ。戦火に焼かれようとも、それが天命だと受け入よう」

 年を経て色濃く、荒い木肌に手を充てたならば、今まで見た景色が次々と蘇る。
 幾度と季節は廻り、幾多の命が芽生えては消えてゆくのを見つめ、人の子らの想いを聞いてきた。

「花雪。お前は構わぬなどと言うが、私はお前が消えてしまうのは寂しい。共にここから臨む眺めほど美しいものはないのだ」
「……それは私もだよ、藍の鳥。朽ちて、そなたが私に与えて呼び続けたその名を聞けぬようになるのは寂しい」

「お前が咲花御とか呼ばれる精霊か」

 ああ、あれも懐かしい。瞼を閉ざせば、そこに景色が鮮やかに浮かぶ。
 私の枝に舞い降りた、一羽の藍色の鳥。初めて見た頃の金の瞳は、今よりずっと鋭利で冷たかった。赤と暗い思いをまとい、それでも空と花に映える美しい藍の鳥――。
 それから、はて、十年だったか……。

「お前、名がないのか」

「違う。人の呼ぶそれではなく、我らの世での名だ」

 あの頃も、世は美しかった。そなたが来る日は、いつも天は晴れやかだった。

「ならば、もし許すなら――」

 ああ、そなたが初めて笑みを見せたのはあの時だった。

「花雪。お前は花雪だ」
「雪の降るように美しく咲いて散る。まさにお前にふさわしいとは思わんか?」

 瞼をもたげれば、もう西の空は薄く赤みを帯びはじめていた。同じように遠くを見ていた藍の鳥が、嘆息してうつむいた。手を袖に仕舞い、身を縮める。……もう別れの時だ。
 金の瞳が振り返る。

「花雪」
「なんだろう、藍の鳥」
「まだ朽ちるなよ」
「無理を言うな。もう年だ。……そなたは無事であれ」
「……また春に会おう。必ずや」

 私の返事も聞かず、一方的に約束を取りつけて藍の鳥は東の空へ飛び立った。風にまかれ、足元に散った花弁がいくつか共に舞い上がった。
 小さくなってゆく影を見送り、私は山際に昇り始めた月に目をとめた。

 藍の鳥の言うように、大きな戦になるだろう。
 次の春に、私は目覚めることができるであろうか。

 私の葉も散る頃、さらに重く禍々しくなった空気を憂いながら、私は目を閉じた。

「――――」

 誰かの声が聞こえた気がして、私は目を覚ました。
 足元にすがる気配がある。いったい誰であろうか。
 外の様子を見てみると、周りは一面、真っ白の雪が積もっている。 体が痺れるような寒さだ。

 ああ、もう冬なのか。今年は雪が降るほど寒いのだな。
 相変わらず、陰鬱とした気配は重たさと濃さを増している。

 私の足元には人影があった。うずくまるようにして震えているのは、ハルだ。
 この寒く薄暗い中で、なぜ……。

「咲花さま、咲花さま」
 か細い声は、体同様に震えていた。いつからここにいたのやら、鼻も耳も頬も真っ赤だ。

「母が……っ、トヨが倒れたんです! どうかお助けください……! お願いします……っ」

 トヨ……。

「風邪をこじらせて……! 昨晩から体が火のように熱くて、苦しそうで……、目を覚まさないんです……!」
 ハルは幹に額をこすりつけて、幾度も助けを乞う。

  …………ハル……。ハル、すまない……。

 できることなら私はトヨを救ってやりたい。だが、できぬのだ。私は力を持たぬ。
 私はただの桜だ。ただ他より長寿であるだけの。ただ毎年花を咲かせ、人の想いを聞くだけの……。尊いものと人は祀ってくれたが、私は神ではない。その私に、人の病を払う力などないのだ。

 すまない。トヨ。
 あれだけ私を慕ってくれたそなたを苦しみから救ってやれぬ。私が薬草であったならば、この身を煎じ、少しは役立つことができただろう。

 ぽたりと根に水が滴った。
 涙――いつも堪えて、滅多に泣かぬ子なのに。
 思わず伸ばしたこの手は、ハルに触れることはなかった。
 冬を迎えた桜に、この子の頭上に降らしてやれる花はない。悲しまないで、笑っておくれと、いつもそうして慰めてきた花吹雪。

 ああ、幾百年を生きしといえど、なんと無力なことであろう。
 ただ苦しむ愛しい人の子の無事を思うことしかできぬとは。その娘御の、ただ泣き続ける様を見つめることしかできぬとは。そのなんと歯痒いことか。

 すまない、トヨ。すまない、ハル。
 我が愛しい人の子ら――――そなたらに、私は何もしてやれぬ。

 ハルが帰るまで、私はただ俯く頭を見つめるしかできなかった。

「咲花さま。私、北の地に行くことになりました」

 トヨの葬儀の後、雪解けの頃に、旅支度をしたハルがそう報告しに来た。
 戦はもう始まっている。じきにここにも火の粉は届くであろう。その前に、ハルは父親と共に、父親の故郷である北の地に逃れるらしい。

 あの日以来、今までハルは私のもとへは来なかった。

「咲花さま。最後に咲花さまの満開の花を見ていきたかったです」

 ハル。泣かないでおくれ。私はそなたの笑った顔が見たい。

 唇を噛むハルは着物の袖で乱暴に目元をこすった。

「さようなら」

 深く頭を下げて一礼したハルは、顔を上げずに反転し、来た並木路を歩き出した。路の向こうで、父親が待っている。
 一度たりとも振り返らず、離れる背に私はただ祈りを唱えた。

 さようなら、ハル。そなたもどうか無事で。

 戦の炎が村に届く、五日前のことであった。

 次頁

◇Photo/ NOION
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