*-Intermission 2.-クレアの記憶-
あの人の最後の願いだった。
自分より大きなあの人。翼を持たないあの人。くちばしのないあの人。自分たちとは真反対の明るい毛と瞳をした、あの人。
あの人は、体のどこをとっても自分と似ている部分がなかった。けれど、他の誰でもない、あの人とだけは、言葉も心も交わすことができた。
自分の家族も、周りにいる他の家族も、異なる種族であるあの人にとても友好的で、仲間のように接していた。自分が生まれた時には、もうずっと慣れ親しんだ存在として、その場に馴染んでいたのだ。だから、自分にとっても自然と家族同然の存在になった。
「クレア」
自分の名前を呼ぶ声は、とても優しかった。
あの人は、知る限りでは、クレアたちと言葉を交わせた唯一のニンゲンだった。稀に訪れたあの人の知人たちも、指や変な棒を喉に当てて一言二言呟くと、あの人と同じように話すことができたけれど、あの人はそんなことをしなくてもよかった。ただ声を出せばよかったのだ。
クレアは大きくなるにつれて、あの人やその知人は村にいる他のニンゲンとは違うのだ、と思い始めた。
あの人は、あの人の家族が一緒にいる時や村人が近くにいる時は、自分たちに話しかけなかった。こちらが呼んでみても、彼女は目を向けるだけで返事をしてはくれなかった。家族たちは気にしなかったし、そういう時は絶対に話しかけたり近寄ったりしなかった。だから、あの人が一人でいる時しか話しかけてはいけないと自重していたけれど、ずっと不思議に思っていた。その理由を知るのは、ずっと後になってからだったが。
クレアがまだ一人前になってもいない、ある夏の日。あの人は突然、ねぐらを訪れた。薄ら寒い夕暮れのことだった。
ねぐらに戻ってきていた家族たちは揃って首をひねった。こんな時間にどうしたのだろう、と。
あの人は、家族に取り囲まれた真ん中で何かを告げた。みんながざわめいて、あの人は悲しそうに笑った。それから彼女は家族たちにあいさつをして回り、最後にクレアの元に来た。
「クレア」
あの人は自らが名づけた名前を呼んだ。クレアたちは持たない優しいテが、いつものように首を撫でた。
「クレア。もし村に、わたしみたいに、あなたとお話できる子が生まれたら、仲良くしてあげてね」
あの人は少し寂しそうに、悲しそうな目で笑っていた。だから、イヤだとは――彼女のお願いを断る理由なんてなかったけれど――言えそうになかった。
「うん。その子と毎日お話して、一緒に遊ぶよ」
クレアがそう言うと、あの人はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、クレア」
そして、あの人は暗闇の中に消えていった。二度とクレアたちのいる森には来なかった。どうしてなのかは、その時はわからなかった。
やがて一人前になったクレアは、毎日、あの人が住む村へ飛んだが、あの人の姿を見ることは叶わなかった。
どうして、と憤りと悲しさが募った。
どうして姿を見せてくれないの? どうして会えないの? 会って、お話できないの?
どうして。
一人前になったのに。もうひとりでずっと遠くまで行けるのに。あの人について、空を飛べるようになったのに。
どうして。
難しい話もわかるようになったのに。あの人の役に立てるようになったのに。
どうして――。
ぽかりと穴ができたように毎日が楽しくなくなって、ずっともやもやとしたものが胸にあった。
冬が過ぎて、あの人の村へ飛ぶのも習慣になっていた。クレアは同じ木の枝にとまり、いつもあの人が出てきた家の戸を眺めた。若い男や嫌そうにこちらを見る若い女はいても、あの人が出てくることはなかった。
再び夏が近づくある日、あの人の家族に赤ん坊が生まれた。あの人と同じ、陽に輝く小麦畑のような明るい色の髪をした女の子だった。その子が生まれて数カ月後に、その家からキョウカイ(あの人は、神さまに祈る場所だと言っていた)まで、黒いフクを着たニンゲンがヒツギを担いで行列をなした。
ああ、誰かが死んだんだ。クレアは思った。あの人の家族の誰かが……。もしかしたら、あの人かもしれないと、そうも思った。
ずっと会えなかったのは、病気になっていたからかもしれない。確証はないのに、ひどく悲しんだ。もしヒツギに入っていたのがあの人でなかったとしても、もう会えないと分かっていたからだ。
その日は、森のみんなが村の周りに集まって、キョウカイを見つめていた。
それから二、三年後。あの赤ん坊は歩けるようになって、言葉を覚えた。あまり他のニンゲンの子とは遊ばず、よく家の前のポーチでひとりで遊んでいた。
つがいを得て子育てもしたクレアは、その頃もまだ、あの家を訪れる習慣が抜けきっていなかった。
そういえば。
あの人が最後に言っていたことを思い出し、ある日、クレアは興味本位でその子に声をかけてみた。
「なにをしているの?」 と。
見返してくる瞳は、あの人とは色が違っていた。自分たちと同じ黒の瞳でその子はじっとこちらを見て、ことりと首を傾げた。
「オママゴト? ひとりで寂しくない?」
クレアはポーチの手すりに飛び移り、さらに距離を縮めた。
村の子供たちはクレアたちが近くにいると怖がって逃げ出したので、こんなに近くに寄ってはその子が泣き出すかと思った。けれど、その子は、ぱちりと瞬きしただけだった。
「へーき」
初めて幼子が言葉を発した。
「からすさんは、なにしているの?」
クレアは驚いて目を丸くした。舌足らずではあるけれど、幼子は確かに質問の答えを返してきたのだ。
「……あたしは、散歩をしてたんだよ」
「そうなの」
幼子は手元にあったニンギョウの髪を小さなクシで梳かした。本人は丁寧に梳かしているつもりでも、髪がくしゃくしゃになってしまうのはよくあることだ。
「おさんぽ、たのしい?」
「まあまあ、かな」
「ふうん」
「ねえ。あんた、名前は?」
この幼子のことを少しでも知りたくなって、クレアは尋ねた。
「しんしあよ」
「そう。いい名前だね、シンシア」
一歩前へ飛んで、クレアはシンシアを覗き込んだ。黒い瞳がニンギョウから離れ、クレアを見つめた。
「からすさんのおなまえは?」
「あたしはクレア」
「くれあ?」
ことり、とシンシアは首を傾けた。クレアもつられて、同じ方向へことりと首をひねった。
「そうだよ」
「くれあ」
確認するように、小さなクチビルから呟きが漏れた。
「なんだい」
「おなまえ、きいたから、わたしとくれあは、おともだちね」
にっこりと嬉しそうに幼子は笑った。
黒い瞳が、一瞬だけ空色に見えた。
――名前を聞いたから、わたしとクレアはお友達ね。
あの人と同じ、光が零れるような笑顔だった。その表情に、言葉に、クレアはあの人の面影を見た。
――仲良くしてあげてね。
「もちろん」
クレアは、あの人の言葉に再び返すように、シンシアに返事した。
約束したのだ。
――毎日お話して、一緒に遊ぶよ。
大好きなあの人と、約束した。
――ありがとう、クレア。その子もきっと、あなたを大好きになるわ。
――わたしがあなたを大好きなようにね。
「よろしくね、シンシア」
「うん!」
その出会いが後に少女の運命を大きく変えるということを、幼い少女はもちろん、クレアも、あの人さえも――世界の誰もが、まだ知らなかった。
「飛べた!」
はしゃいだ少女の声が谷間の方から響く。大事な大事な“娘”の声は、聞けばすぐにわかる。
飛び立ったクレアは声のする崖の家へと舞い降りた。
「見て、クレア!」
頬を紅潮させ、少女はきらきらと輝く瞳をクレアに向けた。ホウキにまたがるという、今までは目にしなかった奇怪な光景だが、確かに宙に浮いていた。ゆっくりと、少女は八の字を描いて見せる。
ああ、そういえば、あの人も……。
「これなら、わたしもみんなと空を飛べるよ」
一緒に遠くにも行けるようになるよ、と少女は微笑んだ。
――クレアも一緒に、遠くに行けるわね。
ふらふらと覚束ない少女は、綺麗に飛んで見せたあの人とは雲泥の差だけれど、クレアは頷いた。
「もう少し上手く飛べるようになったらね」
「えー、じゃあ頑張らないと――キャアッ!」
がくんと高度の落ちたホウキに、少女は悲鳴を上げてしがみつく。
ああ。これでは、まだまだ。あの人には追いつかないだろう。
だけど――
ねえ、――――。
この子はやっぱり、あなたにそっくりだよ。