椅子の上で寝ていたボレアスは目を開けた。猫の耳が小さな音を聞きつける。
 シンシアはもう起きたらしい。扉の軋む音に続いて、小さな足音が廊下を通り、二階のドアから温室へ向かった。
 窓の外は薄ぼんやりと明るい。目の前のベッドではダムゼルが静かに寝息を立てている。時計を見ればまだ三時台で、彼女が起きるまであと三時間はある。
 日の出とともに起きるシンシアは、夏の間はやたらと早起きだ。これが冬なら、もう少し遅くまで寝ているのだろうか。
 なんにせよ、ボレアスは起床をダムゼルに合わせるので、もう一度目を閉じた。

13.-弟子の一日-

 ダムゼルが六時に起きて早朝の薬草の世話を終え、朝食を準備する頃、ボレアスは定位置である戸棚の上を陣取っている。毛づくろいをしていると、しばらくして黒猫に促されてシンシアがやってくる。
 朝食は、ダムゼルの睡眠の具合にもよるが、パン、目玉焼きを乗せたベーコン、サラダ、夕べの残りのスープなどだ。
 シンシアは食が細く、朝は特に食べるのが遅い。食欲が湧かないようだ。シンシアの小食は生まれつきでなく、習慣的な理由も大きいに違いにない。ずっとまともに食べていなかっただろう体は、少しの食事で満足するようになっている。
 しかし、魔法を使うには、魔力だけでなく体力も必要で、それらを培うためにも、今のうちに食事をちゃんと取る癖をつけさせなければならない。
 シンシアが来てから三ヶ月。これでも、少しは食べるようになった方だ。
 当初はダムゼルの胃腸薬(栄養剤入り)を二週間も飲み続けたシンシアも、来たばかりの頃に比べてずいぶんと年相応の姿になった。髪や爪の艶は戻り、こけていた頬は丸みを取り戻しつつある。落ち込んでいた目の下の皺が残っていることと、相変わらず痩せっぽちなことがまだ目立つが、この調子なら来年の今頃には見た目の違いは消えるだろう。
 ゆっくりした食事の後、シンシアは二時間の読書をする。
 この頃の課題本は『要点集中・魔法協会史簡易目録 ヘガからエデ暦に至るまで』で、歴史の勉強を兼ねている。前に読んでいた『古代文明と神話に読み解く世界史』のシリーズでないのは、ダムゼルが続編を所有していないことと、世界史が重要なのは対魔族の最盛期であるヴレ紀までだから。ヘガ紀が始まって以降は、魔法協会の歴史を中心にした知識が必要なのだ。
 さて、エデ暦に入る前に、要点だけを掻い摘んで、ギルム紀からヘガ紀の歴史をおさらいだ。
「ギルム紀の終わり頃、この世界に強力な魔族が現れた」
「闇一族」 黒板を見ながら、シンシアが呟く。
「そうだ。親玉の〈血塗れ男〉を始め、九人の息子と十三人の娘をそう呼ぶ。文献や絵画には、巨大な銀色のコウモリの姿で描かれる。強力な魔力を持つ化物たちは、毎夜、町や村を襲い、人々を食い荒らした」
 黒板には、ボレアスの魔法で、紙芝居仕立ての絵を描いている。
「人類が窮地に追い込まれる中、魔族に対して唯一の対抗手段である魔法を使える人間が現れた。彼らは組織を作り、闇一族に対抗する。これが……」
「聖軍」
「そう、魔法協会の始まりだ。この聖軍が生まれた時代から、ヴレ紀に入る。……人間と闇一族は長く争った。聖軍は魔術師の数を増やし、強力な魔法を編み出していった。長期化する争いの中、やがて一人の男が現れる」
「ヴレ・フィンタ?」
「正解。ヴレ・フィンタというのは古代語で〈光の者〉という意味の称号で、本当の名前はわからない。ちなみにヴレ紀というのはこのヴレ・フィンタに由来するとされる。闇一族と戦った時代だ」
 今から、約三千年前の話は、もはや神話の域に近い。闇一族さえ、実在の魔族ではなく、自然災害を象徴しているだけだという学者もいる。
 英雄ヴレ・フィンタが登場するのも二千年前で、彼が実在した人間のなのかも、本当のところは不明である。
「彼は自らを犠牲にし、闇一族を弱体させるに至った。同時期に、世界の秩序――魔界連盟、聖界連盟、世界連盟の三つの組織ができ、ヴレ紀は終わる。協定の下、人間を脅かす闇一族は魔界へ去り、聖軍はそのまま魔物の討伐組織として存続する」
「闇一族は、戻ってこないんですか?」
 わずかに首を傾げたシンシアが尋ねた。
「連盟の協定では、異なる連盟に属する世界への移動も接触も、すべて禁じられている。俺たちが住むこの世界は、人間界。第三世界、エルドラと呼ばれる」
「他にも、世界があるんですか?」
「異世界はいくらでもある。そうだな……人間界は他に、第一世界のアージェ、第二世界のニオレメがあって……人間界は精霊の住む精霊界とともに世界連盟に属している」
 シンシアは分からないと首を傾げていく癖がある。黒板に図を描いて説明するが、金色の頭はどんどんと左に傾いていく。
「連盟には連盟総会というものがあって、つまり会議をしていろんな決め事をする。これに参加するには魔法を使えないといけない。だから、連盟に関する事柄はすべて、魔法協会がこの世界を代表して行う。この前も、魔女会長が連盟総会に参加するのに異世界へ行っていた」
 ついに、完全に首を横倒しにしたシンシアは、頭が痛そうに眉間に皺を寄せ始めた。
「よし、この話は終わりだ。とにかく、いろんな世界があって、規則を決める組織があって、問題を回避するための規則を守らなければならない。魔界にいる魔族は、もうこの世界には来られない。だから、闇一族が戻って来ることはない。いいか?」
「えっと、んん……、はい」
「なら、頭を戻して……続けるぞ」
 ボレアスが尻尾を振ると、黒板が消され、チョークがまた新たに絵を描いた。
「ヘガ紀になり、世界がおおよそ平和になってきた頃、討伐組織は魔法協会と名を改め、魔術師は魔物の討伐だけでなく、人々を助けるための様々な仕事を始めた……」

*  *  *

 昼食を終えて休憩を挟んだ午後一時頃、シンシアは軽い足取りで温室へ向かう。与えられた鉢植えの他に、新たに増えた薬草に水やりをするのだ。
 それが終われば、修行の時間だ。
 前まではダムゼルが薬学を教えていたが、最近では飛行訓練に費やす時間が多くなった。秋の遠征に向けて、完璧に乗りこなすとまではいかなくも、一通りの操縦ができるようになっておきたいと、ボレアスが指導をしている。
 練習が始まって二週間が過ぎ、シンシアはやっと三メートルほど浮けるようになった。
「肩の力を抜くんだ、姿勢を正して……シンシア、大丈夫だから落ち着け。おまえが怖がると箒に影響する。落ちたくないなら怖がるな」
 イーヴンから譲られた箒は、練習用にしてはよく出来た物だ。前の使用者がいる分、初めこそ繋がりづらいだろうが、シンシアの魔力も馴染みだしたようだ。浮くまでの時間が大分と短くなった。
 ボレアスは、ダムゼルから借りた箒に乗って、地上十メートルで滞空している。愛用の箒を使いたいが、いかんせん猫の姿になってから長らく手入れをしていない。自分の箒を使うのは、人間に戻ってからだろう。
 箒飛行なら、そんじょそこらの魔術師よりずば抜けて上手いとボレアスは自負している。現に、ぴたりと静止した箒は風に吹かれても揺れることがなく、猫の姿のせいで箒の柄を掴めないが、落ちる心配などしていないので手放し状態でも危なげなく座っていられる。
 なかなか緊張の解れないシンシアと、乗り手に影響されてプルプル、フラフラと不穏な動きをする箒とは大違いだ。
「下ばかり見るんじゃない。柄の先が下がりかけてる、下手すると前転するぞ」
「はい……」
 余裕で箒に乗る猫、今にも落下しそうな少女。地上では黒猫がシンシアを激励する。
 何とも奇妙な光景だろうと、ボレアスはふとした瞬間に思う。
「シンシア、三メートルも十メートルも変わらないだろう。今は練習なんだ。落ちても、ちゃんと助けてやるから、思い切って俺と同じ高さまで上がってこい」
「は、い……」
 そこから三十分かけて、なんとか五メートルまで上がったので、今日は前進と停止、左折と右折の練習をした。魔術師の中には飛行技術が壊滅的な者もいて、そういう類はこの段階ですでに躓く。上手く制御ができず、振り落とされるのだ。その点、シンシアは、慎重すぎるほどの速度ではあるが、なんとかなっている。
「あとは慣れだな」
 休憩を入れつつも三時間ほど練習すると、さすがに集中力が切れてきて、シンシアは何度も落下しそうになる。その度にボレアスは魔法で補助をするが、助けなければ落下していただろう数を内心で数える。基準は十回だ。落下回数が十回を超えると、練習を切り上げる。だいたい夕食の一時間前になることが多い。
「うー……」
 魔力も体力も消費して、へろへろになった少女は、ぐったりと椅子に身を沈めている。
 飛行訓練をした日は、夕食前の読書はしない。今のうちに休んでおかないと、夕食後には、例のヒンクファニーの鏡を用いた、三十分間の想像訓練が待っている。
 シンシアは頑張っている。噂のとおり素質があるのか――もちろんボレアスの贔屓目を抜きにしても――成長は目覚ましい。
 複雑なお題だと何がなんだか分からなかった映像が、次第に色の境を持ち、今ではそれなりの輪郭がある。とはいえ、あくまで「それなり」だ。目を細めればわりと大まかな映像として見られる、という程度。
「まだまだ、だねえ」
 当然ながら、ダムゼルの評価は厳しい。この様子では、彼女から及第点が出るまで時間がかかるだろう。
 シンシアは、どこか悔しそうにしながらも、ダムゼルに促されて風呂へ向かった。寝支度をしたら、そのまま部屋に上って、黒猫と一緒に寝る前の読書をするはずだ。
 ボレアスはリビングに残って、ダムゼルが今日の仕事の仕上げをするのを待つ。
「ああ、そうだ」
 おもむろにダムゼルが声を上げると、受注依頼書の束のなかから、封筒が飛んできて、ボレアスの前にやってきた。魔法協会からだ。すでに封が解かれており、中から二枚の書類が出てくる。
 ボレアスは目を眇めて、一枚目に目をやった。シンシアの住民登録についての通知――第一審査の内容とその結果だ。
「保護者・後見人、および保証人の適性審査?」
 初めて知らされる内容の詳細を見て、ボレアスの背筋を寒さに似たものが滑り降りた。
 所得、戸籍、現在の家族構成、交友関係、職業、魔術師なら資格階級に仕事の履歴など……要は身辺調査なのだが、徹底的に調べ上げたらしく、そこまで必要かと思うほどずらずらと項目が並んでいる。外部者(つまり、魔術師の町以外から来た者)の住民登録をする際、審査は厳しいとは聞いていたが、これは思った以上だ。
「いっそ素晴らしいな」
「本当に」 思わず漏れた呟きに、ダムゼルが同意を寄越した。「あたしも驚いたわ」
 魔法協会は、魔法に関する一切の情報、知識、物品を勝手に外部へ持ち出すことを禁じている。世の中には、私利私欲のために魔法を使おうと目論む為政者や権力者がいるからだ。

 魔法は、人を脅かす魔物に対抗する手段であり、人の力で敵わない自然への対処法であり、世の安寧を築くものである。魔術師は、世界と人を繋ぐ仲介者として、正当な理由を以って助けを望む人々のためにこの力を使うべきである。

 これが協会の発足当時からの理念だ。しかし、この不思議な力は、人の欲に染まって争いの火種となる。外から“魔法を盗みにきた”者は度々いた。政敵を陥れようとした者もいたし、魔法が人間同士の戦争に利用されたこともあった。魔法協会の規制はその度に厳しくなり、今やこの通り、外部から入ってくる者と手引きする者に敏感だ。
 町に結界を張って外部との接触を遮断するのも対策のひとつ。魔法協会の徹底ぶりを甘く見てはいけない。ただでさえ警備隊はすべての町の結界を(もちろんどんなに小さな町でも)常時、見張っている。実際、シンシアの時も反応が早かった。魔術師の町の住民が外部に出る時は警備隊が密かにその行動を監視している、なんて噂まである。
 前もってこれだけ調べていれば監視もしやすかろう。彼らの目を盗んで悪さをするのは到底無理だ。
 そういえば。シンシアが来た時、ダムゼルが警備隊を相手にむりやり融通を利かせたことを思い出した。あの時の二人組には感謝すべきだろうか。ばれたら間違いなく審査に響くはずだ。書面の『問題なし』を見て、よかったと改めて思う。
「ともあれ、よかったじゃないか」
「そうとも言い切れないよ」
 キッチンとダイニングをあらかた片づけ終えたダムゼルは、苦い顔をして二枚目の書類を示した。
 こちらの書類は、第二審査の予告だ。そこに並ぶ文字は、登録申請者の面接、および魔力調査。
『登録申請者は原則、魔術師の血縁者か、魔術を扱える見込みがある者に限り――』
 そんなことは知っている。
「えー……『その血筋の正統性および、能力の有無を確かめるため、面接と調査を実施する』」
 面接と、調査。二つを受けるべき登録申請者は、シンシア。
 これはこれで嫌な予感がする。
「面接って何をすると思う?」 とダムゼル。
「……書かれていないな」
 ボレアスは何度も読み返すが、余白の目立つ書類に細かい記載はない。
「会って喋るだけなわけがないだろうし、協会のことだから何かあるんでしょうね」
「何かって?」
「例えば、魔法で嘘をつけなくするとか、あるいは記憶を見るとか。例えばね」
「ああ……」
 ないと言い切れないのが心苦しい。ボレアスは首を掻いて、溜め息をついた。
「それより、シンシアがまともに受け答えできるかどうかだろ」
「魔力調査も、いったい何をさせられるか……。魔法の練習、早めにした方がいいかしら」
「考えとくべきだな、万が一に備えて」
「あー、やることが多すぎるわ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ダムゼルは家の戸締りをしに向かった。廊下で、風呂から出てきたシンシアと挨拶をする声が聞こえ、魔女の足音は地下室へ向かった。軽い方の足音は二階へ上がり、移動する。
 少しの間、書類を眺めたボレアスは、悩みのつきないまま紙を元通りに封筒にしまった。
 静かな部屋に時計の針の音が響く。規則的な音が眠気を誘い、欠伸が出た。ダムゼルが戸締りを終えて、寝支度をするまで時間がある。このままでは寝てしまいそうだ。猫の体は疲れやすい。
 小柄なシンシアも、きっと疲れやすいだろう。
 シンシアは頑張っている。好奇心に促され、素直さに付き添われ、教えられたことを吸収している。毎日、一歩ずつ。その頑張っている弟子には悪いが、もっと頑張る必要がでてしまった。
 お詫びに、明日からの勉強は少し軽めにしてやろう。
 そんなことを考えながら、ボレアスは眠りの境に身を寄せた。

To be Continued...
2014/09/28