シンシアという少女は、物心ついてから人間と過ごした時間よりカラスと過ごしてきた時間の方が長く、ゆえに十二歳という年相応の常識を持っていない。そんな彼女の目付け役を命じられたノートは、未だにその行動の突飛さに気を揉まずにはいられなかった。
「あ、こら! 触るな!」
 つい先ほどまで火にかけられていた鍋へと伸びた手が、あと数センチというところでピタリと止まる。ノートは特大の安堵の溜め息をついて、がっくりと項垂れた。その頭上から、本当に意味が分かっていない様子の声が降ってくる。
「どうして触っちゃだめなの?」
「あのさ、シンシア、火は熱くて触れないし、怪我をするから触っちゃだめだ。わかる?」
「うん。でも火は消えたよ?」
「火は消えても、さっきまで火にかけていた鍋は火と同じくらい熱いんだ」
 乾いた布巾を片手に、少女は不思議そうな顔をしている。
 とくに道具類の扱いにおいて、それは顕著だった。

11.-微睡の神話-

「いただきます」
「どうぞ」
 いつもダムゼルが言う台詞は、今日はボレアスが引き受けた。
 シンシアが食べ始めたのを確認して、ノートはぐったりと椅子の上に寝そべる。昼食の準備だけだというのに、シンシアの看視は無駄な神経をすり減らした。
 これで、はたして夜まで持つのか。
 自問しながらノートは慎重にシンシアの様子を窺う。
 シンシアは、倒れた日の翌朝に目を覚ました。いつも通り、夜明けに。周りの心配をよそに、本人は何事もなかったかのようにけろりとしている。
 倒れたことと魔力の異変の原因はわからないままだ。往診した医師が言うには、何かの病気ではないとのことだった。ダムゼルの昔からの知り合いというから、腕は確かだろう。
 事実、目覚めてから今日で三日目だが、シンシアに変調は見られない。魔力計の結果も全て正常。魔力量は年相応の平均値に近く、波長はきちんと一定の規則性を持っている。
 昨夜の深夜会議では、シンシアに魔力を使わせる時は用心する、ということで話が落ち着いた。
 ダムゼルは、シンシアに留守番させることを気にしていたが、悔やんでもこればかりは仕方がない。タイミングが悪かった。依頼を受けたからには、余程のことがないと取り消しは効かないのだ。
 ――なるべく早く終わらせて今日中には帰ってくるつもりだから、目を離さないように。
 魔女は猫たちにそう伝え、早朝から渋々と仕事に出掛けた。
「ごちそうさま」
「食器は流しに持って行って、今日は自分で洗うんだぞ」
「はい」
 ダムゼルはいないが、幸いにしてボレアスがいる。彼も一応、シンシアの師匠だ。ノートだけではどうしようもないことも、なんとかなる。……はずだ。
「スポンジは目の前の青いやつだ。黄色は掃除用だから使うな。赤いのは劇薬用だから絶対に触るな」
 たとえば、ボレアスは雑多に積み上げられた物の置き場をおおよそ把握しているし、ノートではいまいち基準がわからないダムゼルの物の使い分けも熟知している。
「使う洗剤は足元、一番左のだ。一滴垂らせば十分だぞ」
 戸棚に上ったボレアスは、高みから少女に指示を出す。ノートは台所作業用の椅子で待機だ。首を伸ばせばシンシアの手元が確認できる。
 シンシアに食器洗いをさせるのは初めてだ。いつもならダムゼルが魔法を使って済ませる。
 泡だらけになった手とスポンジに感心しながら、シンシアはそろそろとフォーク、皿、グラスを洗った。
「後はしっかり流して、隣の台に立てておけばいい。いいか、石鹸と同じで滑るから――」
 気をつけろ、と言いたかったに違いない。だが、少し遅かった。
 ガシャンと無情な音がして、ボレアスはぐっと口と目を閉じる。
「ご、めんなさい」
 シンシアがびくびくとしながら、泡だらけの流しから割れたグラスを持ち上げる。ノートは慌てて声をかけた。
「シンシア、だめだ」
「手を切るから触るな」
 戸棚からも飛んできた鋭い忠告に肩を跳ねさせ、グラスがまたシンシアの手から滑り落ちる。
 あーあ、とノートは思わず耳を伏せた。
「食器は簡単に割れるから気をつけろ」
 ボレアスが尻尾を振ると、ガラスの破片が浮き上がる。元通りになったグラスは、そのまま流水に飛び込んで勝手に泡を流し、台へ移動した。
 何よりの救いは、こうしてボレアスが魔法を使えることだ。その後も何度か助けられた。もう思い出すだけで頭が痛くなる。
 一番危うかったのは、シンシアがつまずいて薬品入りの鍋を手放した時だ。不運にも、その時ノートはシンシアの進行方向にいた。
「うわ――!」
 ノートの悲鳴じみた叫びが続くより早く、投げ出された鍋は傾く前に宙に浮いた。そして、ふよふよと移動してコンロの上に丁寧に着地。事無きを得た。
 ちなみに、中身は作りかけの脱色剤だ。最後に過熱と濾過を繰り返してようやく完成し、人にも使えるようになる。それまでは脱色どころか皮膚が剥がれる刺激物だ。
「あのなあ、」
 シンシアとノートは同時にボレアスを見る。彼の顏はノートに向いている。
「俺の魔力は本調子じゃないんだ。容量が少ないんだから乱発させないでくれるか」
「なら、あのままぶちまけろって言うのかよ」
「ぶちまける前に注意しろってことだ」
「なんで俺に言うんだ」
 注意するべきはシンシアであって、ノートではない。ノートがいくら気をつけていても、今日のシンシアは、いつにもまして問題を起こす。
 ダムゼルもいないのだし、倒れたこともあるし、無理にあれこれと挑戦させなくてもいいではないか。
 途中でそう提案したのに、聞き入れなかったのはボレアスだ。
「シンシアの目付け役だろう? 魔法や薬学はダムゼル、飛行は俺、座学も俺に丸投げで、おまえがするのはせいぜい励まし程度じゃないか」
「……それは、師匠なんだから、教えるのは当然じゃないか」
「最初に世話役だって言われただろう。たいがいの面倒を見ろって。注意させるのもそのうちだ。違うか」
 確かに、言われた覚えがある。
 返す言葉はないが反射的に口を開こうとしたノートを牽制するように、ボレアスは語気を強めた。
「俺は、おまえが白猫になっても、毛無しになっても、べつに構わないんだぞ」
「……そう、だろうよ……」
 この性悪め。
 心の中で毒づくノートなど気にも留めず、ボレアスはシンシアに本を取ってくるように言った。
「さあ、シンシア。もう大人しくしていてくれ」
 何もさせないほうがいいと、彼もようやく判断したようだ。

*  *  *

 一口、二口とフォークを口に運び、シンシアはなんとなく室内を見渡した。
 ダイニングやリビングは、相変わらず物が溢れていて、圧迫感がある。実際に狭い。けれど、ダムゼル一人がいないだけで部屋はがらんとして見える。昼間はそれほど気にならなかったが、夜になった今、人気がないことがやけに気になった。
 午後から降り出した雨は止む気配がなく、サラサラと水の音が窓越しに忍び込む。隔離されたかのような室内で、時計の秒針と食器が立てる音さえ耳障りに思えた。
 シンシアは雨の日があまり好きではない。耳が神経質になるからだ。雨風に紛れる他の音を聞き逃すまいと、意識が聴覚に集まる。昔からの癖だ。
 皿に残った最後の一口を無理やりに押し込んで、シンシアはフォークを手放した。少なめに取ったのに、少しお腹が苦しい。
 夕食を終えた後は、黒猫と一緒に戸締りの確認だ。それから風呂に入って、寝る支度を整えたら、自室で睡眠前の読書をする。今日は本ばかり読んでいる。今日だけで課題の本を一冊(それも五百ページの分厚いものを)読み切ってしまった。
「今日は早めに寝ろよ」
「はい。おやすみなさい」
 就寝の挨拶をして、ボレアスが部屋を出たのは九時だった。夕食が早かったため、その分、普段よりも時間がずれている。
 ベッドに横になり、シンシアはイーヴンが前に持ってきてくれた『エドラ神話』を開いた。ダムゼルの家に滅多にない「物語」で、なおかつ「子供向け」の本だ。最近は暇があればこれを読む。
 シンシアにとって本は知識を得るための物だ。専門書も物語も、違いはよくわかっていない。ただ、物語とやらは、カラスたちがよく話して聞かせてくれた伝説やおとぎ話に似ていて、専門書を読むのとは違った楽しさがあった。
「水の神パラジルは、豊穣の女神たちの兄で、世界に雨を降らし、川や、湖や、沼や、はたまた海を干上がらせないようにするのが仕事です。このパラジルは、火の神トートイルにたびたび水をかけて悪戯をするのでした。その度にトートイルは風邪を引き、彼の咳やくしゃみを怒号と勘違いした火の精霊たちは、人間界に雷を起こすのです……」
 一人きりの部屋でしばらくページを捲っていると、ごろごろと低い音が響いた。浸っていた意識をハッと取り戻したシンシアは、やけに周りが騒がしいことに気づく。
 ベッド横の窓がガタガタと揺れる。ガラスには大量の水がひっきりなしに伝い、反射するシンシアの顔を歪めていた。
 雨は知らないうちに強さを増して、雷まで鳴り出している。刹那の白光が目に焼き付き、シンシアは無意識に息を詰めて、体を強張らせた。
 かたりと音がして振り返る。黒猫が、頭を無理矢理に戸の隙間に押し込んで開け、入ってくるところだった。
「シンシア? まだ起きてるのか?」
 ノートはシンシアと目が合うと、小首を傾げて見せた。
「珍しいね。もう十一時だけど」
 言われて、時計を見たシンシア自身も驚いた。
 朝早く起きる反動か、シンシアは夜遅くまで起きていられない。この家に来てからは、いつもなら九時半を過ぎると瞼が重くなる。
「うん、本を読んでて……ダムゼルさんは?」
 自分の体の変調に不安を覚えながらも、口をついて出たのは師である魔女の名前だった。
 シンシアは無自覚だが、先日のこともある。ノートは注意深くシンシアの様子を観察しながら、ベッドの足元に飛び乗った。
「まだだ。もうそろそろ、帰ってくると思う」
「そう」
 シンシアは今一度、窓を見た。光に続く轟音が、どんどん近くなっている。
 ダムゼルは箒で出かけたのではなかったか。こんな雨風の強い中、空を飛ぶのは危険だとカラスたちが言っていた。雷が鳴っているなら特に、飛ぶべきではないと。大丈夫だろうか。
「急な嵐だけど、ダムゼルなら魔法で避雷くらいできる」
「避雷って?」
「雷に当たらないようにすることだよ。……ほら、もう本は終わり。今日はたくさん読みすぎだ。頭がパンクするぞ」
 促されるまま、シンシアは本を枕元に置いてランプを消し、枕に頭を沈めた。シンシアの腰の辺りまで上ってきたノートが、窓を一瞥する。
「カーテン、閉めなくていいのか?」
「うん」
 シンシアは窓に背を向けて、頷いた。
 背後から白い稲光が部屋に差し込み、床に窓と猫の形を写した。思わず笑みを浮かべたシンシアを、ノートは不思議そうに見つめて、その場に伏せた。
「眩しくないの? 音だってうるさいし……」
 雷も雨風もしばらくの間、止む気配がない。ピカピカと断続的な光は眠りを邪魔するだろう。透ける薄手のカーテンとはいえ、閉めれば眩しさも音も少しは紛れるのに。黒猫はそう思ったが、シンシアの返答は変わらなかった。
「いいの」
 シンシアは、背後に向けて耳をそばだてないように、なんとか意識を紛らわせた。聴覚が冴えている今は、雨音も雷鳴もいっそ騒々しいくらいがいい。音を探れないと諦められる。
 シンシアはそっと息をついた。この感覚は久しぶりだ。
 眠くても熟睡できないことは慣れている。雨や風の日に寝付けないこともよくあった。あの日々を思えば、毎晩ぐっすり寝ている方が不思議なのだ。
 でも、眠くすらならないのは、本当に珍しい。
「ノート」
「なに?」
「火が熱いなら、雷も熱いの?」
 唐突な質問で、ノートはまたしても首を傾げた。シンシアが先ほど読んだエドラ神話の話をすると、合点がいったようだ。
「ああ、トートイルの話か。雷に触ったことがないから、実際はどうかわからないけれど、雷自体は熱くないはずだよ」
「雷のせいで山火事になるって、クレアたちから聞いたよ」
「雷を作るのは火の精霊だからだよ。火の精霊と同じで、雷が触ったものも熱を持つし、たまに燃えてしまうことがある」
 どうして雷を作るのか、どうしてパラジルはトートイルに意地悪をするのか……シンシアはいくつも質問を重ねた。ノートは神話を引き合いに出しながら、それに答えた。
 ようやくシンシアが眠たそうにしだした頃には、ノートは質問に答えるのではなく、エドラ神話の中でも有名な話を語って聞かせていた。
 もうとっくに日付は変わった。
 闇色の目は徐々にぼんやりと滲み、ゆっくり瞬きを繰り返す瞼も重たげだ。
 雷は遠退いたが、雨と風はまだ続いている。絶えない物音の中、ノートの耳が階下の物音を聞きつけ、ピクリと動いた。聞き慣れた靴音だ。
「ノート、どうしたの?」
「ダムゼルが帰ってきた。こんな時間まで起きてるってわかったら、怒られるよ。そろそろ眠れそう?」
 こくりと金色の頭がわずかに動いた。それから、シンシアの目が不思議そうに揺らぐ。
「ノートは、眠くならないの?」
「ああ、猫は夜行性だから」
「……でも、昼間も、寝てないのに?」
「俺は普通の猫じゃないって、言っただろ」
「……? ……どういう、こと? よく、わからない……」
「なら、眠たくなってきた証拠だよ」
「そ、なの……かな……」
 ノート自身も矛盾したことを言っていると思った。だが、眠気で頭が回らないのだろう、シンシアは途切れ気味のふわふわした口調で、あっさりと納得の言葉を紡いだ。
「じゃあ最後に、眠りの神さまの話をしてあげよう」
 シンシアは自分でも意識しない間に、ダムゼルの不在を気にしていたらしい。証拠に、ダムゼルの帰宅を知らされた途端、張り詰めていた気がひとつ、睡魔にのまれていく心地がした。
「夜の神が目を覚まし、空を黒く染めはじめる頃――」
 瞼を下ろした少女の表情に安堵を読み取って、ノートはいっそうゆったりと、眠気を誘うように語り始めた。
 頭の中に響くような少年の声が、シンシアの意識を微睡の中に沈めていく。沈んでしまえば、雨の音も風の音も表面を騒がすだけで、聞こえない。尖っていた気は静められて溶けだした。
 ノートが語り終えるときには、シンシアはすっかり眠りの中だった。少女の寝息を窺って、黒猫はその場で丸くなると目を閉じた。
 朝になるまで、あと数時間だ。

To be Continued...
2014/08/17