ガラス戸の開け放たれたバルコニーからは、風と一緒に弟子を鼓舞する猫たちの声がかすかに聞こえる。ダムゼルは珍しく二階の書斎で作業をしていた。
「だから、もう少し先だって言ったでしょう」
 ダムゼルは受話器を肩に挟みながら、器用に手元の本を捲る。その一方で、ペンを握る利き手は複雑な魔方陣の解読メモを細かな文字で綴っている。正直こちらに集中したいので、電話の向こうでごちゃごちゃと喚く声など意識半分以下にしか聞いていない。
 時間は午前十時、例によって労働局からの通信の時間だ。

10.-泡沫の欠片-

「頼みますよ、どうしても最高等魔術師にとの依頼なんです」
「あたし以外にもフォスファなりヴェスパなり少なからずいるでしょうが」
「ここ数ヶ月の討伐依頼を受けていないのはダムゼルさんくらいです! 皆さんお疲れなんですよ!」
 通信の向こう側にいるのはダムゼルに連絡してくるいつもの役人だ。顔を合わせたことは数度しかないが、少なくとも五年はダムゼルの担当である。
 今にも泣きそうな声で訴えられるが、ダムゼルは知ったことじゃないと眉を潜めた。
「お疲れでも何でもいいから、とにかく来月末まで遠征依頼は受けない。……もし一日で終わるものなら、なんとかできなくもないけれど」
「今のところ、最短でも三日かかるものしかありません」
「なら無理ね」
「そこをなんとかできませんか。報酬だって十万オルですよ」
「残念だけどお金には困ってないわ」
「そんな!」
 今までの仕事で稼いだお金は少なくとも一年は十分暮らせるだけ貯金しているし、自作の薬をちょこちょこと売るだけでも多少の収入になっている。余談だが、ダムゼルが受けてきた遠征依頼の報酬に比べれば十万は安い方だ。
 それに今はいくら泣きつかれようと、家にシンシア一人を残して行く訳にはいかない。一緒に連れて行くにも、最近訓練を始めた飛行は浮くのがやっとのシンシアだ。話にならない。かといって出先まで歩くのは時間がかかるし無駄な労力を使う。箒の二人乗りではいざという時に速度が出せない。移動魔法というのも手だが、あれはダムゼルに負担が掛かりすぎるので却下。
 最終手段として、仕事の間だけシンシアを誰かに預けるくらいしか方法はない。
 作業を中断してバルコニーに出たダムゼルは、家の前の原っぱで箒に跨っているシンシアを見下ろした。
 下手に知らない人間の中に放置する真似は、あまりしたくないのだが。
「……その三日の依頼の内容は?」
「えっ、じゃあ……!」
「まだ受けるとは決めてない」
 期待した役人にぴしゃりと言い放ち、ダムゼルは質問を繰り返した。
 がさがさと紙を漁る音がしばし聞こえ、大慌てで書類を探しているのが手に取るようにわかった。
「依頼内容は、農作手伝いです。固く痩せた土地の村で栄養剤が不可欠なので毎年依頼が来ます」
「そんなの、別にどの魔術師でもできるじゃない」
 しばらくして役人が読み上げたのは、最高等魔術師を派遣するにはあまりに陳腐な内容だった。
 いくら不毛の土地だとしても、それなりに効く栄養剤さえあれば耕作できる。それはわざわざトップレベルの魔術師を指名しなくともいい仕事だ。ほとんどの栄養剤には薬物規制がかからないのだから、作る分には困らないはずである。
 それが、と役人は続けた。
「一昨年、昨年と大規模な蝗害があったようで……。昨年は中等魔術師を派遣したのですが上手くいかずに被害がでまして、今年はさらに厳重な対策を、と」
「蝗害ねえ……」
「イナゴの発生を阻止するか、そうでなければ村と畑を守る措置を取って欲しいそうです」
 要は遠回しに結界を張れということか。
 村の大きさがどの程度かはわからないが、畑を含むのなら大規模になるだろう。イナゴ駆除にしても、やはり規模によっては一人では手に負えないかもしれない。
 最高等を指名するのは、依頼失敗を繰り返して魔法協会と魔術師の面目を潰さないために、保険をかけてというわけだ。間をすっ飛ばされた高等魔術師たちが聞けば怒るだろう。
「……それ、毎年ってことは、どんな栄養剤を使うかは大方決まっているってことよね? 過去五年の資料を送ることはできるの?」
「え、あー……まあ、できなくもないですが……」
 歯切れの悪い役人に思わず眉根を寄せ、ダムゼルは唸った。こういう仕事関係の時にはっきり返事をしない人間は嫌いだ。
「できるの、できないの」
「できます! やります!」
 なら、とダムゼルは頭の中で計画を立てる。
 栄養剤はあらかじめ作って持っていく。多少複雑でも一日あれば調合は間に合うだろう。現地の様子を見てから細かい調整をする。
 イナゴは発生を止めるより駆除する方が簡単だ。結界で囲い地を作り、そこへ呼び込んで閉じ込めてしまおう。村をひとつ守っても、周りの自然や他の村に被害が出ては余計な火種になる。一方通行の結界は術式が面倒だが、補助道具を用意しておけば現地での作業が短くて済む。
「……そうね、やろうと思えば一日でなんとかできるか」
「え? もしかして受けるんですか?」
「仕方がないからね」
 受話器の向こうで喜びを露わにした声が、資料をいつ届けられるかと計算している。聞き流しながら弟子たちを見下したダムゼルは、次の瞬間、通話機を放ってその場を飛び出した。
 浮き上がった少女が、ふらりと地面に落ちるところだった。

*  *  *

 力を失くした体をベッドに寝かせ、ダムゼルは険しい顔で少女の額に手を当てた。ランプがある頭もとのチェストには猫たちが揃ってシンシアを覗き込んでいる。
「どうだ?」
「熱はないよ。呼吸も脈も正常」
「……いったいどうしたんだ」
 ボレアスもノートも、倒れるまでシンシアに異変はなかったと言う。何の前触れもなく意識を失ったのだと。
 あの時、咄嗟にダムゼルは浮遊魔法を、ボレアスは空気で緩衝の層を作ったおかげで、シンシアの体は地面にぶつかるのだけは避けられた。
「最近は暑くなってきたし、熱中症か?」
「……熱中症ならまだいいけれど」
 魔術を操るがためにかかる厄介な病気もある。普通の人間には無害でも魔術師にとって致命的な病気をいくつか、ダムゼルはその症状を照らし合わせた。
 有名な病状では、おそらくないと思うが。
「一応、魔力計を使ったらどうだ」
 ボレアスも同じように考えていたらしく、ダムゼルが思ったことを口にした。
「そうしようか」
 ボレアスたちにシンシアを任せ、ダムゼルは一旦書斎へ向かった。
 バルコニーの床に通話機が転がったままだ。拾い上げると、驚いたことにまだ回線が繋がっていて、役人の呼ぶ声が小さく聞こえた。
「ダムゼルさーん、どうしたんですかー? おーい!」
「役所はそんなに暇なのかしら」
「あっ、ダムゼルさん、急にどうしたんですか、びっくりしましたよ。っていうか、暇って――」
「ちょっと用事ができたから、もう切るわ。駆除剤の資料は出発日の二日前には届くようにして」
 付き合っている暇はないのでダムゼルは相手に被せるように、早口で伝えた。
「二日前ですね……え、でも、それって明日――」
「一日あったらできるでしょ、じゃあ」
 引き留める声を聞かなかったことにして、受話器を置くが早いかダムゼルはそれをぽいと放り投げた。着地した通話機の代わりに探すべきは魔力計だ。
 幸い、魔力計はあっさりと見つかった。
「でも、これ……使えるのかしら」
 魔力計を手に魔女はしばし悩む。魔力計とは繊細なものだ。物に紛れてずいぶんと埃を被っていたそれは、とりあえず見た目だけ綺麗にしてみたものの、まず動くのかすら怪しい。
 己の魔力なんて計らずとも体調からおおよそ判断できるため、対人用は使う機会がなかった。見たのすら久々な気がする。
 ダムゼルは計器を手のひらに乗せ、そこから伸びる指輪を人差し指にはめ、魔方陣が刻まれた多角形の金属板を額に当てた。そして計器のスイッチを押し込む。ガチッと危うい感触がして、壊れたかと魔女の頬が引きつった。
 チ、キ……チキ、チキ……カチカチカチ……。
 魔力計から時計に似た小さな音が響き、計器のメモリが色を変えた。起動した合図だ。ぎこちなく動き出した針が、次第に滑らかさを取り戻し、ダムゼルの魔力の量や波長を示す。
 よかった、大丈夫そうだ。
 ダムゼルはほっと息をついた。
 ところが、肝心のシンシアの魔力を計った時に、予期せぬ結果が出た。
「なんだこれ」
 シンシアに繋がる魔力計を睨みながら、ボレアスが唸る。
「壊れてるのか」
 そんなはずはないと告げるダムゼル自身も困惑していた。信じられない気持ちで計器を見る。
 魔力計はまともに動いているように見えなかった。魔力量は増減を繰り返して数値が安定せず、波長を示す針の動きは一向に規則性が見出せない。
 壊れていると思うのも無理はなく、ボレアスが念を押してくる。
「さっきはちゃんと動いたよ。問題なかったもの」
「なあ、これって大丈夫なのか? こんなことあるのか?」
 ノートが弱々しく問うた。ダムゼルもボレアスも思わず黙る。魔女と灰色猫は互いを見合い、魔女が先に口を開いた。
「これに似たようなのは、ね。魔力を使えないように抑えられているのに使おうとした時とか、逆に本人の意思に反して無理矢理に放出させられている時とか」
 どちらも体に悪いことは変わりない。前者なら、無理に魔法を使うと魔力が体内で暴発し、制御が聞かなくなったりショックを起こしたりする。後者なら、何もしていないのに普段以上に消耗する上、いずれ魔力が枯れて命が危うくなる。
 このまま少し様子を見て、魔力量が減らないなら後者の心配はほぼない。また、前者のショックを起こしたとすれば、シンシアの昏倒の説明もつく。
「誰かが魔法をかけたってことか?」
「魔法による人為的な場合がほとんどだけれど、そういう病気もある。どちらも考えにくいから、なんともいえない」
 しかし、これは魔力量のみ関することで、波長の不規則はまた別の話だ。波長は個人により様々で差も大きいが、長くとも五秒間隔で一定の規則性がある。基本的に乱れることはしない。
「とりあえずは様子見か」
 ボレアスが呟いた。
「様子見って、このまま放っておくのか? あんたたちの弟子だろ、魔術師なら何か――」
「うるさい小僧。医療専門でもないのにどうしろって言うんだ」
 納得いかないと声を上げたノートを遮り、ボレアスが遠慮なく威嚇した。アイスブルーの目が眇められ、鬱陶しいと黒猫を睨む。
 魔女は内心で溜め息をついた。ノートの心配する気持ちは、もちろんわかる。けれど医者を呼んだからといって、すぐにどうこうなるわけでもない。
「仮にも魔術師の町に住んでいるなら魔術師はなんでもできるだとか一般人みたいな考え方をやめろ、不愉快だ。万能でないことくらい半人前の子供でも知ってる。だいたいおまえも――」
「はい、そこまで。病人の頭元で騒がない」
 つらつらと吐き出される文句が長くなりそうで、ダムゼルは早めに割って入った。
 ボレアスがいつにも増して苛立っているのも、思わぬ事態に焦る気持ちがあるからだ。彼だって心配している。
「午後一番にリンデ先生に来てもらえるように連絡するから、昼まで様子を見る。記録はあったほうがいいから魔力計はこのまま。常に誰かが傍にいて、目を離さないこと。……異存は?」
「ない」
「……ない」
 即答するボレアス。渋々と頷くノート。溜め息の尽きないダムゼル。
 三つの視線が気遣わしげにベッドへと向けられた。
「何もないといいけれどね」

*  *  *

 ぼんやりとする。頭が重く、泥沼に沈むような心地だ。
 沈んで、沈んで、ふいに体が軽くなった。
 目を開くと、周囲一面が白いもので満たされていた。その煙のようなものは薄く光っている気がする。まるで朝霧の中にいるようだ。どこからか水のサラサラと流れる音も聞こえる。
 シンシアは全身の力を抜き、ふわふわと心地良い気分で、霧に包まれていた。
 目を閉じて、ほうと息を吐くと空気が揺れた。
 ――……?
 視線を感じて、シンシアは目を開ける。
 そう遠くない場所で幼い少年が立っていた。じっとこちらを見つめる瞳は、濃く鮮やかな青色だ。どこか見覚えがあると思ったら、からりと晴れた夏空の色だった。
 あなたは、だれ?
 訊ねた言葉は声にならなかった。
 少年は何も言わず、無表情のままシンシアを見返す。二人はそのまましばらく見つめ合っていた。
 あ。
 前触れもなく、シンシアが瞬きをした拍子に、少年はシンシアよりも年上の青年へと姿を変えた。短かった黒髪は伸びて、毛先が彼の目元に薄く影をつくる。柔らかさのなくなった顔はやはり無表情で、彼は視線を逸らすことなくこちらを見続けた。
 無言のまま、表情を失くしたまま。青い目にも感情はなかった。まるで人形のようだとシンシアは思う。彼からすれば、ただ見返すばかりのシンシアも同じように見えるのだろうか。
 お互いに視線を合わせるだけの行為は、ひどく奇妙で無意味だと理解していた。しかし、そうする以外に何もできなかったのだ。
 またしても前触れなく、辺りに満ちていた霧が青年を取り巻き始めた。霧は濃さを増し、シンシアから青年を隠そうとする。
 急速に立ち込める白に紛れて、青年の黒い服はみるみるうちに色が薄れていった。黒から灰色へ、灰色から白へ。
 視界を遮る霧にも動じず、青年はゆったりと瞬きを繰り返した。
 まずは手足、それから胴と、徐々に溶けるように霧に飲まれていく。シンシアに向け続けた瞳は最後だった。
 青年が完全に消えてしまった後、またしてもシンシアの体はどこかへ沈んでいく。真っ白に戻った視界の中でシンシアは目を閉じた。
 青年の姿も顔も、霧に溶けたと同時に記憶から消えてしまった。曖昧にぼやけて、もう思い出せない。
 けれど、ただ一つ。濃く青いあの瞳だけは瞼の裏に残り続けた。

To be Continued...
2014/06/14