掃除というと、結構な肉体労働だ。
 まずは片づけ。それからはたきで家具の埃を落とす。煙突の煤落としや暖炉の灰を掻くのも大変だ。埃を落としたら、時には家具を動かしながら箒で床を掃き、水とブラシで洗い、乾拭きをする。板張りの床なら定期的にワックスもかけないといけない。それに窓拭きだ。合せてカーテンも洗う必要がある。
 そんなこんなで一部屋にしても、徹底的に掃除するなら数時間はかかるはずだ。少なくともシンシアはそう思う。いや、そう思っていた。
 なのに、この光景はなんだろう。

7.-頭の絵筆-

 唖然と立ち尽くすシンシアの目の前では、今まさにダムゼルがリビングとダイニングの掃除を行っていた。
 朝食の後、ダムゼルから 「今日は掃除をする」 と聞いて、この雑然を通り越して悲惨な状態の二部屋を掃除するには一日では到底足りないと思っていたシンシアの予想は早くも裏切られる。
 掃除は掃除でも、せっかく魔法があるのだ、魔女が素直に手でするはずがない。
 惜しみなく魔法を駆使するその様は圧巻だ。
 まず、部屋の床を埋めていた雑多な物が一斉に宙に浮き上がり、動き出す。二本のはたきが忙しなく動いてそれらの埃を払い、綺麗になった物からダムゼルが用意した鞄の中に次々と吸い込まれていく。もちろん、普通なら入るはずのない容量が。けれども鞄の大きさは一切変わらない。
 散乱していた紙や本は、同じく宙を舞って、順番通りに並び変わりながらシンシアの目の前を横切っていった。
 床を占領していた物があらかた消えると、今度は家具が浮いた。はたきに続いて動き出したのは六枚の雑巾だ。そのうちの二枚は家具を磨き、二枚は窓を拭き、一枚は天井掃除で、もう一枚は壁を拭く。暖炉では灰掻きが終わったところで、水入りのバケツとブラシが意気揚々と炉内を磨きにかかった。
 床は箒と塵取りが縦横無尽に掃きまわり、あっという間に水洗いに移った。
「ちょっと、そこにいちゃ邪魔だよ。濡れるから廊下まで下がって」
 玄関扉の前に立って魔法を使うダムゼルから声が飛ぶ。シンシアが慌てて飛び退き、敷居を跨ぐと、すかさずモップとブラシが床を磨きにやってきた。
「暇なら洗濯を手伝っておいで」
 掃除の様子をもっと見ていたかったが、仕方ない。好奇心を抑えきれないまま、シンシアは渋々ボレアスがいるだろう洗濯場に向かった。

*  *  *

 黒猫の時といい、今といい、どうして家族たちはこんなにも敵意を示すのだろう、とシンシアは思った。喧嘩などして欲しくないのだ。黒猫は特に。
「同じ黒色なのに……」
 色など関係ないのだが、共通点があると馴染みやすいだろう、というのがシンシアの考えである。
 だが、カラスたちの敵意とは、彼らがどれほど少女を心配しているかということに他ならない。シンシアもまだ人間に対しての警戒心が抜けていないが、それ以上にカラスたちは人間に対して警戒心を抱いている。自分たちのためだけでなく、少女が傷つかないためにだ。
「だから、あれはただ買い物に行っただけだって!」
「いーや、信用ならないね!」
「疑い出したらきりがないだろ!」
「そもそも疑わないとは言ってない!」
「なんだと!」
 顔を合わすなりすぐさま言い合いを始めたノートとまだ若いオスのカラスに、シンシアはこっそりと溜め息をつく。飛び交うふたつの少年の声は威勢よくそれをかき消した。
 テラスの物干しに張られたいくつものロープにはもういっぱい洗濯物がはためいている。服やタオルやシーツの他、カーテンにソファーカバー、テーブルクロスからラグまで、布という布製品が集まっていた。
 そのうちシンシアが干したのは半分だが、大量の洗濯物を干すことが思ったより首と腕にくることを初めて知った。魔法を覚えたら、師匠たちのように楽をできるのだろうか。最後の洗濯かごを見下ろしてそんなことを考えた。
「シンシア、俺は中の様子を見てくる。干し終わったら戻ってこい」
「はい」
 去り際にボレアスが、うるさいと言わんばかりにノートに向けて何かを投げつけた。驚いたカラスたちはバサバサと羽を散らせながらシンシアの傍にやってくる。
「あれ……?」
 黒い羽が舞う中でふと空を見上げたシンシアは、家の屋根の上に一羽のカラスがいるのに気付いた。他のカラスとは違い、こちらに寄ってくる気配はない。ただじっと、まっすぐにシンシアを見つめている。
 見たことのないカラスだった。胸に傷跡があり、黒の毛並みは少し乱れている。あんな特徴があるなら、シンシアの記憶に絶対に残っているはずだ。
 新しい子、だろうか?
「おーい、シンシア?」
「……え、なに?」
 ぼんやりと様子を見ていると、スカートのすそが控えめに引っ張られた。見下せば先ほどのオスのカラスだ。
「何を見てるの?」
「え、うん……あそこにいる子、なんだけど……」
「……あいつ、見ない顔だよ」
「あれはうちのじゃないね」
 新たに聞こえた声の方を見れば、傍らにやってきたクレアが同じく屋根のカラスを見据えていた。
「やっぱり? 新しい子?」
「どうだろう。もしかすると谷の反対側の集団かもしれないね」
「でも、あの子、怪我してる」
「……大丈夫、あれはもう古い傷だよ」
「あっ……」
 シンシアが声を上げた時には、もうカラスは飛び立っていた。広げられた翼も尾羽根も、羽根が何本か抜けてしまって、まばらに隙間が開いていた。ずいぶんとぼろぼろだ。
「なんだったのかな?」
「さあ……だけど、あまり良い雰囲気じゃなかったね……」
「……もしまた来たら、教えて。じゃあね、みんな」
 籠に入っていた洗濯物をすべて干し終えたシンシアは、カラスたちに手を振って、家の中へ戻った。途中で小さなブラシが落ちているのを拾った。さきほどボレアスが投げたのはこれらしい。どこのブラシかわからなかったので、とりあえず洗濯場のすみに置いておく。
 ノートがまだ背中を痛そうにしていたので、籠を置いて黒猫を抱き上げたシンシアは背中をさすってやった。
「ボレアスめ……」
「ノート、さっきのカラス見た?」
「ああ、うん。あのカラス、ダムゼルが言ってた審査じゃないのか?」
「そうかな」
 そういえば二、三日前に書類を書かされた時に言われたとシンシアはようやく思い出した。すっかり忘れていたのだ。
 審査がどういうものなのかはダムゼルも知らないらしい。ただ 「観察される」 とだけ言っていた。
「普段通りにしていればいいんだよね?」
「そう。気にしないで、自然に」

*  *  *

 掃除をしたとはいってもダムゼル邸の内装は朝とほとんど変わっていなかった。リビングもダイニングも相変わらずごちゃごちゃしている。
 夕食を食べ終えたシンシアは、ダムゼルに教わったとおりにフォークとスプーンを置いて、皿を押しやった。先にもう食べ終えていたダムゼルがそれを下げ、かわりにカップ一杯の紅茶がシンシアのもとに飛んでくる。一緒にテーブルに着地したミルクと砂糖に手を伸ばし、シンシアは慎重にまず砂糖を加えた。そーっと、そーっと、慎重に。でないとこぼすからだ。無事に二杯入れ終え、次はミルクに手を伸ばす。
「あ、」
 少女が動きを止めたそばで、ピクリと猫二匹の耳が反応した。
 ああ、ミルクを入れすぎたな。
 シンシアの様子を見ていたダムゼルと、音だけでだいたいを把握した猫たちは同じことを思う。
 まだシンシアは、たいていのことのさじ加減が掴めていない。それはシャンプーの量しかり、歯磨き粉の量しかりで、長さや重さ、温度の感覚が弱い。十センチはこれくらい、一キログラムはこれくらい、このくらいなら温度はいくら、といったふうに人が使う単位に置き換えることができないのだ。
 ダムゼルがその気になれば一定以上の量が出ないように魔法をかけたり、ミルクだって最初からシンシアに丁度の量を用意したりはできる。でも、あえてそれはしない。日常生活の目分量は必須だ、と。
 カチャカチャと音を立てながら紅茶をかき回し、シンシアは恐る恐る口をつけた。
「………………」
 本人はただ 「前に飲んだものと味が違う」 と思うだけで気づいていないが、難しい顔をしているあたり、どうやら周りが思ったより多くミルクを入れすぎたようだ。
「さて、と」
 シンシアがもう一口飲みこんだところで、ダムゼルがどこからともなく鏡をテーブルに持ち出した。
 一目でわかる、変わった鏡だ。楕円形をしていて、シンシアから見える裏側には細かな細工がしてある。その模様が目のように見なくもない。ふちの左右と下側には、長い飾り房がついている。
 ダムゼルがそれをテーブルに置き、シンシアはさらに首を傾げるしかなかった。肝心の鏡が、中心から四方に向かってひび割れているのだ。まるで歪なクモの巣のように。もちろん、それでは正しく景色を映さない。
「それ、なんですか?」
 ダムゼルは視線だけよこして答えないまま、両手を使って鏡のふちを儀式めいた動きでなぞり、息を吹きかけた。
「シンシア。クレアってどんな姿だった?」
「え?」
 唐突な質問だったが、シンシアの頭の中には小さな母親の姿がふと浮かぶ。
「あ、よしよし、ちゃんと動くね」
 ダムゼルは映らない鏡を見ながら、満足そうに笑みを見せた。何かと思ってシンシアが再び鏡を覗くと、あのひび割れは綺麗に消えていて、曇りのない滑らかな鏡面にはダムゼルの姿が映っていた。
 さらに首を傾げた弟子に、魔女はその物体の正体を明かした。
「これはヒンクファニーの鏡。別名『悪魔の眼』っていう魔法の鏡だよ」
「悪魔の、なまこ?」
「まなこ。目のことだ」
 ボレアスが横から訂正と説明をくれた。
「つまり悪魔の目。ヒンクファニーという悪魔が持っていた鏡で、その悪魔が人の頭の中にある映像や人の心を読むために使っていたから、そう呼ぶ」
「……って、え!? おい、これ本物じゃないか!」
 シンシアと一緒にしげしげと鏡を眺めていた黒猫が突然、半ば叫ぶように声を荒らげた。その音量に魔女は不快そうに眉を寄せる。
「そうだよ。偽物なわけないじゃない」
「な、冗談だろ! 協会の考古機関で、第一級の重要保管指定品のはずだ! 本物なんて文献でもちょっとしか載ってないし、見つかってないって……!」
「だから、これがそうだってば」
「嘘だ! 何で持ってるんだ!? 『悪魔の眼』には簡単に扱えないように強力な呪いの魔法がかかってるばず――ムグッ」
 忙しなく動いていたノートの口が、ふいにぴしゃりと閉じてしまった。ノートはもごもごと口の中で言葉にならない声を発し、前足で懸命に口を擦っている。
「ちょっとお黙り。落ち着くまでそうしておいで」
「ノートの言ったことって本当ですか?」
 危ない鏡を使って師匠は大丈夫なのだろうか。
 そんな心配をしているのがよくわかるシンシアの顔を見て、ダムゼルは苦笑した。
「だいたいはね。でも大事なところが抜けてる。ヒンクファニーの鏡は二つあってね、そのうちの片方は人間の手に渡り、まあ……人の汚い欲のために使われ続けて、鏡に宿る悪魔の魔力に恨み辛みが染みこんで強力な呪いの鏡になった。これがノートの言う“伝説の魔鏡”」
 二本立てていた指のひとつを折り、ダムゼルは残った人差し指で鏡を指差した。
「で、こっちは残ったもう片方。これは、とある魔術師が厳重に保管して悪魔の魔力をうまく消したから呪いはない。ただし悪魔が使っていたようなものだから、扱うには十分な注意が要る。――わかった? ノート」
 もごもごしていたノートの口がやっと開くようになった。
「それをどこで手に入れたんだ……か、教えてください」
「ああ、仕事のお礼で、どうせ持ってても手に余るからって貰ったんだよ。どこかにいったと思ってたら、今日の掃除で見つかって。どうせだから使おうってね」
 さて、とダムゼルはシンシアに向き直った。シンシアは無意識に姿勢を正して聞く姿勢を取った。
「今日からこれで想像力の訓練をする。いいね」
 ヒンクファニーの鏡を使った訓練は、夕食後のお茶の時間にすることになった。
 訓練は、ダムゼルが出すお題を頭に浮かべるだけという単純明快なものなのに、とても難しかった。最初はごく簡単なもの――実際目にしたことのある人物や動物、物を思い描くだけで、シンシアにも容易にできた。問題は次からだ。「小川の流れる森」、「色とりどりの花が咲く草原」といった風景、「ポットのお湯が沸騰する」、「火が激しく燃える」といった様子、二つを合わせて「窓の外を雨が激しく降る様子」など、細部まで想像しなければならないものは思ったよりも難しい。シンシアはしっかり想像しているつもりでも、鏡を通してダムゼルに見せられる映像は不鮮明なのだ。さらに見たこともないものをダムゼルの説明だけで想像するのは無茶にも程があった。
 そして、数日経ってもそれは変わらなかった。
「マシにはなりつつあるけど、まだまだだねえ」
 ダムゼルが鏡をもう一度なぞると同時に、シンシアは脱力して息をついた。鏡を置いたダムゼルは、飲み干したカップを片づけてキッチンのほうへ向かってしまう。
「ボレアスさん」
 シンシアはもう一人の師匠を呼んだ。テーブルの端にいた灰色猫はパタパタと尻尾を動かしながら返答する。
 シンシアは躊躇いがちに、鏡を引き寄せて覗き込む。今はまたひび割れている。
「これ、できないと魔法は無理ですか?」
「無理なことはない。ただ下手になるだけだ」
「下手?」
「魔法を扱う時に想像力は必須だ。いかに上手く本物らしく想像するかで魔法の出来が変わるからだ」
「本物らしく、ですか……」
「本物を本物らしく、な。いいか、シンシア。誰しも頭に絵筆を持ってる。ここで必要な『想像力』っていうのは、その絵筆でどれだけ上手く絵を描けるかだ。魔法の上手い魔術師は想像するのも上手い」
 なんなら試してみるか。ボレアスはそう言ってシンシアの近くまで来て、尻尾で鏡の縁をなぞった。鏡の表面をそっと尻尾がかすめると、一瞬にしてひびが消えた。
「さて、何が見たい?」
「えっ……」
「なんでもいい。景色でも、物でも、おまえが上手く想像できないやつでも」
「……じゃあ、砂漠がいいです」
「鏡を持って、俺に尋ねるんだ」
 シンシアは恐る恐る鏡に手を伸ばし、ダムゼルがするように触れてみた。ざらりとした手触りに緊張する。
 そして、尋ねた。
「ボレアスさん、砂漠はどんなですか?」
 灰色猫が目を閉じた。シンシアが手元に視線を落とすと、鏡面が揺らめき、渦巻き、はっきりとした景色を映し出した。真っ青な空、オレンジ色の砂の大地、砂の山。照りつける眩しい光、熱で揺らめく空気……。
「こら!」
 パッと鏡が取り上げられて、シンシアは我に返った。戻ってきたダムゼルがしかめっ面で立っていた。
「最初に言ったでしょ。使うには注意の必要な物だって」
「ご、ごめんなさい」
「……ボレアス?」
「悪かった」
 言葉に反してちっとも反省した様子はないボレアスを剣呑に見据えた後、ダムゼルは鏡を丁寧に布にしまった。
「シンシア、寝る用意おし」
「はい」
 再びキッチンへと姿を消した魔女の背中を一瞥し、ボレアスが鼻をひとつ鳴らして笑った。
「ま、あれくらい鮮明になれば文句なしだ」
「……はい」
 それからお風呂も歯磨きも済ませて、シンシアはベッドに倒れ込んだ。一緒に二階に上がってきたノートが頭元にやってくる。
「猫ちゃん、上手く想像できるコツってないかなあ?」
「……あのさ、シンシア、ひとつ言っておくけど」
「なに?」
「ボレアスとダムゼルのレベルは相当高いんだ。目指す分にはいいけど、普通はあんなの無理だ」
 シンシアは鏡に映った景色を思い出す。鮮明で、ともすれば中に吸い込まれてしまいそうな現実味。ボレアスが見せた「砂漠」は、本で「暑い場所」と読んだだけで実際に砂漠を見たことのないシンシアにもどんな場所か伝わった。
「頭の絵筆、かあ……」
 ボレアスほどとまではいかずとも、せめて頭の中の絵をはっきりさせるくらいはできなければならないのだろう。ノートはゆっくりでいいと言ってくれているが、ベッドに入って目を閉じてから眠りつくまで、自分でも少し練習しようとシンシアは決めた。
 もっとも、ベッドに入ってすぐ寝付くシンシアにはそれも難しかったが。

To be Continued...
2013/09/10