「魔術師が個人の移動手段として最も広く用いるもの、それはすなわち箒である。一般に、空を飛ぶために特別に作られたものを、掃除用の箒と区別して『飛行箒』と呼ぶ。」
「よしよし、いいぞ。そのまま」
 太陽が意気揚々と谷底にある町を照らしている。今日も天気がいいらしい。
 〈魔女の谷〉の町を見下ろす魔女の家では、今日も今日とてシンシアの読み書きの練習がされていた。
 実践が一番早いというのはボレアスの意見で、ダムゼルも同意だ。しつこい反復練習をさせるのはノートの意見だ。よって、ダイニングテーブルで本を構えて懸命に読む少女と、その両脇で猫二匹が手助けをしたり励ましたりする様子はもうお馴染みの光景となっていた。
「前述にあったように、飛行箒は魔術師の移動手段として最も手軽なものだ。長距離の移動においても、移動魔法を使うより魔力を消費しないことから、飛行箒は古くから使用され、その歴史は長い。」
 本当は絵本や児童向けの小説があればよかったのだが、いかんせんダムゼルの手元には実用的な物しかない。家中の本棚をあれやこれやと漁って探したものの、結局、初っ端からシンシアの課題本は『飛行箒の歴史』や『初等魔法基礎原理』などの小難しい本ばかりになってしまった。
 ただ、慣れとはさすがなもので、一行に何度も詰まっていたシンシアも二週間経った今ではすんなりと文字を追えるようになっていた。毎日飽きもせずに繰り返して読んだ結果だ。傍で聞いているだけのダムゼルでさえ冒頭の数ページならそらで暗唱できる自信がある。
 少女の音読を背景に、ダムゼルはペンを取って紙を広げ、害虫避けの薬の改良にいそしんだ。

6.-知りたいこと-

 カリカリとペンを走らせ、半ば崩れた雑な文字を連ねていく。ダムゼルが五枚目の紙を埋めて横へ滑らせた時、澄んだベルの音が鳴り響いた。
 通信だ。視線を時計へと滑らせて、ダムゼルは思わず舌打ちした。
「仕事依頼か……」
 通信なんて魔法協会しか使わない。私信なら手紙か杖に来るはずだ。
 時間も午前十時すぎ、協会の労働局が仕分け終えた依頼を寄越すまさにその時間だ。
 ベルがうるさいので出なくてはいけないのだが、さて通話機を最後に使ったのはいつだったか、その時はどこに置いたのやら、どうにも思い出せない。物のあふれかえるこの部屋で何かを探すのは一苦労だ。
「そろそろ片づけるべきかしら……」
 独り言ちて魔女が二度手を叩けば、身近にできた物の山が浮き上がり、そこから通話機が飛んできた。受話器を取って耳に当て、回線をつなぐ。
「はい、もしもし」
『こちらは魔法協会戸籍管理局です。ダムゼル・アーレイス様の通信回線で間違いございませんね?』
 通信相手は、淡々とした早口の女性職員だった。労働局の派遣管理部のいつもの職員かと思っていた手前、拍子抜けしたダムゼルは少し遅れて反応を返す。
「ええ、私がダムゼルです」
『ご依頼の書類がすべて整いましたのでお送りします。なお、住民登録の対象者の第一審査は、同意契約書に対象者本人および保証人のサインがされた日から三日後、零時から開始します』
「わかりました」
『では、もし書類等が足りない場合はご連絡ください。失礼します』
 リン、と通話終了のベルが鳴る。受話器を一瞥して、ダムゼルは回線を切ると通話機を放り投げた。通話機は飛んで、手頃な場所に着地する。
 それから数分と経たずに届けられた書類の束は、一週間も待たされたのに大した量ではなかった。
「まったく、戸籍局ときたら……相変わらず仕事に熱心だこと」
 職務怠慢も甚だしいではないか。
 少しの苛立ちは、再び鳴った通話機の向こう、労働局の職員のおかげでまた募ることになった。

*  *  *

「南部の砂漠地方では飛行絨毯が主流ではあるが、それは乾燥地域ならではである。飛行箒は木でできているため灼熱の日照りに弱く、さらに清らかな水を必要とするので水の貴重な砂漠ではお荷物でしかない。しかし、一方の絨毯も、織物である以上雨や湿気に弱いと言う性質があり、砂漠ほど干上がった場所でなければ十分な速度も高度も出せない。」
「よし、一旦終了。三時間やったから、今日は夕食前の一時間はなしだ」
 ボレアスの許可をもらい、シンシアは大きく一息ついた。
 朝食後に行う読書は二時間と決めてある。あとは夕食前に一時間、寝る前に一時間で、一日に四時間は本を読む。
 さすがに音読しつづけていると口の中がからからで、シンシアは用意されていた冷たい紅茶をゆっくり流し込む。手元で開かれたままの本には、絨毯の挿絵がなにやら矢印や数字と共に描かれている。
 グラスの中身を飲み干したシンシアを、書類を携えてやってきた魔女が呼んだ。
「シンシア、ちょっと、そこの本どけて」
 シンシアが慌てて本を胸に抱きかかえる間に、近くに積み重ねてあった紙の束がダムゼルの腕に当たって無造作に払い落とされた。バサバサと乾いた音を立てて紙は床に広がる。チッという魔女の舌打ちに思わずシンシアが肩を揺らした。
「ああもう、うっとうしい!」
「自分で落としたくせに……」
「お黙り」
 ぼそりと零したノートはダムゼルの一喝で耳を垂れた。
 ダムゼルの肩からは、先ほど鋭い口調で誰かと話している時に突然上がった白煙がまだ細くたなびいている。火でもついたのかとシンシアは驚いたが、ボレアスやノート曰く、苛立つとたまにあることらしい。じろりと黒猫を睨んだ時の迫力は二割増しだった。
 すっかり畏縮してしまったシンシアと口を閉ざした黒猫の目の前に、ダムゼルは書類を大雑把に広げた。そして、先ほどまでダムゼルが使っていたインクとペンが置かれる。
 シンシアの視界の端ではボレアスが呆れた目をして、溜め息まじりに尻尾を揺らす。尻尾に合わせて、魔女に放置を決め込まれた床の紙が浮き上がり整えられて、空いた椅子の上に移動した。
 ダムゼルは数枚の書類の中から一番立派で枠線ばかりの紙をシンシアの前に差し出した。
「シンシア、おまえの住民登録の申請書よ。これは本人の自筆でないとダメなの」
 テーブルを回りこんで隣にやってきたダムゼルは、シンシアの右手にペンを握らせて、一番上の枠を指さす。「住民登録」とは何かと聞きそびれたシンシアは、諦めてその指先を辿った。
「まずここに氏名を書いて。それから下の枠にそれぞれ名と、名字と、その他で分けて書く」
 ダムゼルなら予想していてもいいだろうに、早くも問題発生だった。
「え、あの、氏名って……名字ってなんですか?」
 シンシアの問いかけに一瞬だけ目を丸くした魔女は、あちゃあと額に手を当てた。
「えーとね、名字は家族のつながりを表す名前のこと。名前と名字を合わせて氏名っていうの。あたしならダムゼル・アーレイスだから、ダムゼルが名で、名字はアーレイス。ボレアスは……なんだっけ?」
「ウィンボードン。いい加減覚えてくれないか? 自己紹介なら何年も前にしたはずだけど」
「ごめん。ど忘れしただけよ。普段使わないから……」
 二人が言い合う間、ひとしきりシンシアは記憶を漁ってみたが無駄だった。
「ダムゼルさん。わたし、自分の名字、わかりません……」
「あー、なら書かなくていいわ。あとでなんとかしましょう。とりあえず、ここと、ここに『シンシア』って書きなさい」
 教えられた枠に出来る限りの綺麗な字で名前を書きながら、シンシアは考える。
 カラスたちに聞けばあるいはわかるだろうか、とも思ったが、呼ばれた記憶がないのならあてにはできない。きっとカラスたちも知らないだろう。
「性別、女にチェック。斜めに線を引いて……そうそう。生年月日……ええと、今年で十二歳? ならエデ暦1601年。『1601』って書けばいいよ。誕生日は――」
「わかりません」
 シンシアは心配そうにダムゼルを見上げたが、大丈夫と断言された。
「たしか夏生まれって言ってたね? じゃあ適当に七月一日にしときましょう」
「ええ? それでいいのか?」
 見守っていたノートが苦々しく唸った。魔女はむっとして言い返す。
「どうせわかりゃしないよ。誕生日なんて占い学以外使わないし。もし協会に戸籍があるならそっちが優先されるだろうし、適当でいいのよ。ハイ、次。えーと、両親の名前、わかる?」
 シンシアは首を振った。じゃあ不明にチェック、と言われたとおり、不明と書かれた欄に斜め線を入れる。ダムゼルの指は次の欄に滑る。
「保護者あるいは後見人――あたしだね」
 ダムゼルはテーブルに積み重なっていた紙束から適当な紙を一枚引き抜くと、人差し指を押し当てた。真っ白な紙に、じわりと黒いしみができる。そのまま指を動かして、ダムゼルは紙面に自分の名前を記した。
「この通りに書いて」
「はい」
 他人の名前を書くのは初めてで、シンシアは間違えないように慎重に、一字一字を何度も見返しながら枠を埋めた。その様子に声を出さず笑う魔女は、次の枠に指を滑らせる。
 次の欄は、「住所」と書かれていた。
「住所、って?」
「住んでいる家の場所のこと。ナントカの町のドコソコ通り、何丁目、何番地とか。どの家にも決まった住所があるの。あんたの場合は、ここに住んでるからこの家の住所を書くんだよ」
 言いながら、ダムゼルはさきほど名前を書いた紙の余白部分に、先ほどと同じように指で住所を書いて見せた。渡された紙をシンシアは覗き込む。
「〈魔女の谷〉のはずれ、西寄りの北側、崖の五段目、ダムゼル・アーレイス宅」
 〈魔女の谷〉とは、この大きな谷のことだろうか。
 ダムゼルに 「この通りに書けばいいから」 と言われたので写したシンシアは、そういえば、と師匠を見上げる。
 今までの町や村にもカチャガレムとかリダ村なんて名前があったのなら、あの大きな町にも名前があるのだろうかと疑問を持ったのだ。
「あの町の名前は、なんですか?」
 ダムゼルはきょとんとした後、少し可笑しそうに笑みながら言った。
「〈魔女の谷〉っていうのがあの町の名前だよ」
「え?」
 それはシンシアの予想とは違った答えだった。シンシアの思う町や村の名前とは、個人の名前のようなものだ。それこそ前にいた村のそばの森は“西の森”なんて呼んでいたが、村にはちゃんとハザックという名前があった。
 困惑を隠せていないシンシアの顔を見て、わかるわかると言いたげに黒猫が同情的に頷いた。
「魔術師が住む町の名前はそんなのばっかりだよ。〈魔法使いの高原〉とか、〈青い光の浜〉とか」
「〈鏡水の畔〉とか〈空の燃える谷〉とかな」
 頷きながら、ボレアスも続けた。
「なんだか、変わってますね……」
「そう?」
 ボレアスやダムゼルにとっては、むしろ“普通の名前”であることの方が疑問らしい。違和感を拭えないシンシアの困惑をわかってくれるのはノートだけだった。黒猫曰く、「この二人は魔術師の町出身だから」 だそうだ。そういうものなのだろうか。
「まあ、なんにしても〈魔女の谷〉と〈魔法使いの高原〉だけは覚えておきなさい。〈魔女の谷〉は魔法協会の本部があるし、〈魔法使いの高原〉は第二本部がある中心的な大きな町だから」
 枠だらけだった書類もほとんど埋まってきた。もう残された枠も数個だけだ。
「保証人の魔法署名――これはあたしが書かないとね。ペン貸して」
 ペンを受け取ったダムゼルは、さらさらとシンシアには読めない字で署名をした。ダムゼルがペンを離すと署名は光って、鮮やかに赤く光る模様に変化した。シンシアはびっくりしてその印をまじまじと見る。やがて光が消えて残った赤い印は、レースのようにとても繊細な模様からできており、ろうを塗ったように表面がつやつやとしていた。
「俺も書いてやろうか」
 ボレアスが申し出て、ダムゼルの手にあったペンを魔法で操った。ダムゼルの印の下に、また読めない字の署名がされる。ダムゼルの時と同じように、ペンが紙から離れるや否や署名は光り、今度は淡い青紫色に光る模様に変わった。それもしばらくすると光を失い、つやつやになる。思わず指でなぞってみると、その模様の部分だけ感触が違った。なんだか金属を触っているようだ。
「これがあたしの魔法署名、こっちがボレアスの魔法署名。模様が違うでしょ? 魔術師になれば署名と魔法署名を使うことになる。魔法の契約はただの契約とは違うからね」
「この模様って、覚えてるんですか?」
「まさか。字のほうは覚えておかなくちゃならないけれど、これは署名に特別な魔法をかけると個人が持つ魔法署名になるんだ。読み取りの魔法を使えば、署名した魔術師の号や位、魔力も特定できるからまず複製ができない。安全で有力なんだよ」
 呆けるシンシアに説明を与え、ダムゼルはペンを再び握らせた。促されるまま、シンシアは最後の署名欄を埋める。
「じゃあペンを置いて、人差し指を出して」
 署名欄の横に四角い枠があり、ダムゼルはそこを指で押さえるように言った。なんだろうと思いながらもシンシアは人差し指を押し付けた。
 途端に、ジワリと赤が紙に滲む。
「……っ!」
 驚いたシンシアが指を離すよりも早く、ダムゼルの手が重なって指を押し付けた。
「まだ駄目だよ。枠の中が全部赤くならないと」
「あ、あの、これって……」
「ちょっと血を貰ってるだけ。魔力を調べるのに必要だから」
 四角い枠内がすべて赤くなった頃、ようやく指が解放された。ひっくり返して指の腹を見てみるが、そこには傷も何もない。血の跡すらなかった。いったいどうなっているのか。
 シンシアが自分の指を確かめる間に、ダムゼルは完成した書類を確認し、別の書類を出してきた。小難しい言葉ばかりが連なる書類で、説明を与えられてもいまいち内容がよく理解できなかったが、住民登録に関する同意書と何かの仮契約書らしい。それらにも、シンシアは同じように署名と血証(あの血を取る行為をそう呼ぶらしい)をした。
「これでよし、と」
 書類を確認し、ダムゼルは満足げにそれをまとめた。
「本当にこれでいいのか? 名前と性別以外は全部不確かじゃないか」
「俺もこんな適当な身分申請書を見たのは初めてだ」
 猫たちのやり取りを聞いて、急に不安を煽られたのはシンシアだ。だが、ダムゼルは大丈夫だと軽く答えるだけで、しかもその言い切りようがあまりにも自信満々なので、心配することではないのかと思い直すのは早かった。
 そんなシンシアに、「そこが怖いんだよ」 と、ノートが悩ましげにこぼす。
「え……」
「あいつが言うと大丈夫に思えてくるが、実際大丈夫でないこともあったからな」 と、ボレアスも溜め息まじりに言う。「いっそ見習いたいものだがな。あの自信はどこから来るのか俺にもさっぱりだ」
 再びシンシアが不安に襲われた時にはすでに、当の書類は魔法協会に宛てて送られた後だった。

*  *  *

「クレア、名字って知ってる?」
「なんだい、それは?」
「家族を表す名前らしいんだけど……」
 頼ってみた母親は、首を傾げるばかりで困っているようだった。
「わからないならいいの」
「……ごめんね、シンシア」
「ううん」
 本当は読書をするはずだった夕食前の一時間。洗濯物を取り込んで広々としたテラスで、シンシアはクレアを呼んだ。空は薄い青とオレンジ色に染まっている。
 昼間にあった出来事を思い返しながら、シンシアはぼんやりと夕日に染まった雲を眺めた。
 こうして考えてみると、シンシアは自分のことをほとんど知らなかった。名前と性別、あとは人間であるということくらいだ。年齢さえも、自分ではあやふやで覚えていないのだから。
「あのね、シンシア」
 テラスと崖とを隔てる柵の上から、クレアはシンシアの隣に舞い降りた。
「ミョウジだとかタンジョウビだとか、あたしにはよくわからないけれど……」
 真っ黒な瞳がシンシアを映している。クレアはゆっくりと言葉を選ぶように、諭すように続けた。
「それはニンゲンの社会に必要なことなんだろうけどね、あんまり大切じゃないと思うよ」
「どうして?」
「だって、名前や生まれた日で誰かと仲良くなるわけじゃないだろう? それよりも、シンシアにどんな良い所があるのかのほうが大事なことだよ」
「そうかな……」
「そうだよ。だからあんまり気にすることじゃないよ。あのマジョも、『わからないなら別にいい』 って言ったんだろう?」
「……うん」
「あのね……昔、誰かが言ってたよ。『本当に大切なことなら、いつか知る機会が来る』 って。そのタンジョウビやミョウジが大切なことなら、今はわからなくてもいつかわかるよ」
「……うん」
「自分のことを知りたいと思うのは当然だから、気になるだろうけど……」
「うん」
 シンシアは今一度空を見て、隣に視線を落とした。母親がわりのカラスは気遣わしげにこちらを見つめている。
「わかった。今はまだ知る時じゃないのね」
 少し軽くなった気分を笑みに変えて、シンシアは膝を抱えて抱き寄せた。
「ねえ、クレアにも、知りたいことはあるの?」
「もちろん」
 ぱちりと瞬きして、カラスは優しく言った。
「あたしも、知りたいことが知れる日をずっと待っているところだよ」

To be Continued...
2013/08/23