「まずは、だ」
 黒猫はテーブルに飛び乗った。シンシアの前には革表紙の厚い本が三冊、でんと重ねて置いてある。黒猫は小さな前足で、一番上の表紙をぽんと叩いた。
 昼食を食べたばかりの暖かい午後のことだ。
「魔法についての基礎から始める。魔術師についての基本的な知識も知らないといけない。とりあえず、この入門書は子供向けにわかりやすく書いてあるから、全部読むこと」
 シンシアは最初の本を目の前に引っ張ってきて、開いてみた。表紙、扉、三ページにわたる目次、とめくっていって、シンシアは苦笑した顔を上げた。
「えっと……わたし、文字を忘れたみたい……」
「は!?」
 一瞬だけ驚愕して目をむいたノートは、うずくまって器用に頭を抱え、苦悩のうめき声を上げた。
「いや……もしかしたらと思ったけど…………なあ、ボレアス!」
 しばらく口の中でぶつぶつ呟いてから、黒猫はリビングにある暖炉へ向かって呼ばわった。向こうでは暖炉をかまどのような石の円台に変えて、ふせんだらけの本を片手にダムゼルが薬を作っている。その傍で、沸騰して湯気を立てる小さな鍋を見つめていた灰色猫が振り返った。それはそれは面倒そうに目をすがめて。
「なんだ。俺は忙しい」
「どこがだ。……頼む、来てくれ」
 ダムゼルと二言三言、何かを話してから、ボレアスは気だるそうに渋々といった態でやってきた。テーブルに飛び乗った灰色猫は、一度顔を拭って淡い目を不機嫌に細めた。
「で? なんだ」
「シンシアに文字を教えてやってくれないか」
「文字ぃ? それくらいおまえが教えたらいい。どうして俺に押し付ける」
「俺はこういうのは苦手なんだ。だいたい字は書けないし……」
「はっ。役に立たないな」
 ボレアスは鼻を鳴らし、シンシアを見た。その横で、黒猫は噛みつきたいのを必死に抑えたようだ。前足の爪がきゅっと出たり引っ込んだりしている。
 シンシア、と余所見をしていた少女をボレアスは呼んだ。
「字を知らないのか?」
「前に教わった、んです、けど……」
「忘れたのか」
 こくり。シンシアは申し訳なさそうに頷いた。
「なら書けなくてもいいから、字母表は順番に全部言えるか?」
「じ、ぼ、ひょ? ……って、何ですか?」
「字母表。ひとつの言語に使う字を全部、一定の順番に並べたものだ。……つまり、字を全部書いた表だ」
 苦笑いのまま首を傾げたシンシアに、面倒くさくなったらしいボレアスは投げやりな説明を与えて、子供が字母を覚える際によく使う手習い歌のさわりを少し口ずさんだ。
「聞いたことくらいあるだろ?」
 それはノートでも聞いたことのある歌だったが、シンシアにはそうでないらしい。シンシアはとうとう笑みを引っ込め、本当に困った顔で首をわずかに振った。黒猫もお手上げだと灰色猫のほうを窺った。
「その歌さ、魔術師限定ってことはないか? 一般人は別のを歌うとか……」
「だとしたら無意味だな」
 ボレアスはもう一度ため息をついて、暖炉へ顔を向けた。
「ダムゼル。うちに黒板あったか? あと石盤も」
「シンシアの部屋にあるはずだよ。そうじゃなかったらあの部屋」
 それを聞き届け、いくぞ、とボレアスは廊下へ出た。ノートとシンシアも後に続く。
 魔法以外に関して放任を決め込んだ魔女が、くすくすと笑いを漏らして、扉の向こうへ消える金髪を一瞥した。
「前途多難だねえ」

3.-最初の一歩-

 ボレアスの求めていた黒板も石盤も、シンシアの部屋の片隅に布を被せて置いてあった。それでもやはり少し埃っぽくざらついていて、触ると薄く手形がついた。
 黒板はだいたいシンシアが両腕を伸ばしたくらいの大きさで、三本足の台を閉じれば移動も可能だ。揃いの丸椅子もあった。椅子の足は長く、座席はシンシアの胸辺りにあり、座るだけでも一苦労しそうだ。
 シンシアは書物机から椅子を引っ張ってきて、黒板のそばに腰掛け、石盤を膝の上に乗せた。埃をふき取った後の綺麗な石盤は、昔にも見た覚えがある。たしか、教会で。白い石筆と布の用途もなんとなく思い出した。
「いいか、よく聞けよ」
 灰色猫が黒板の横にやってきて、彼にはなおさら高いはずなのに、軽々と椅子へ飛び乗った。そしてシンシアに向き直り、姿勢を正して座る。ボレアスがすらりと長い尾を振ると、チョークがふわりと浮き上がって、軽快な音とともに黒板に白い線を刻みだした。
 シンシアが呆けて見つめる間に、大小の文字がそれぞれ二行ずつ計四行、整然と黒板の上部に並んだ。
「ボレアスさん、魔法が使えるんだ」
「力が戻ったのはつい最近だ。まだ大きな術は使えない」
 まだ何か言いそうだったシンシアを黙らすため、ボレアスは大きく咳払いすると 「そんなことより……」 と黒板を示した。
「これ、このまとまりが字母表な。いいか?」
「はい」
「よし。じゃあいくぞ。この文字はギルム文字といって、ずっと昔から使われているこの世界の公用文字だ。どこへ行っても、たいがいこの字が使われている。文字は基本的に二十八個あって、それぞれ大文字と小文字の二種類がある。字が持つ意味は同じ。上が大文字、下が小文字だ。形が似ているからなんとなくわかるだろ。これとこれ、それとそれ、あとは並びどおりに。……俺が言っている意味、わかるよな?」
 納得するように小刻みに頷いていたシンシアだったが、ボレアスが訊いたとたんに縦の動きは止まり、頭がゆっくりと横へ傾いていく。ボレアスは期待してなかったのか、そのままベッドの上にいる黒猫に目を向けた。
「ノート。後で確認」
「了解」
「ともかく、これがギルム文字。字の数は二十八。大文字と小文字がある。世界中で使われている。いいな。……で、こっちが、魔術師の使う魔法文字。全部で三十三個ある」
 赤いチョークが仕切りの線を引き、その下側にギルム文字とは違って、直線的でかくかくとした字が三十三個、きれいに並んでいく。
「魔術師はこっちの魔法文字を使う。本も店の看板も書類も、何もかも全部がこの文字だ。これには大文字と小文字の区別はない。魔術師は、一般の社会ではギルム文字、魔術師の社会では魔法文字と使い分けをしなければならない。だからおまえはこの二つの文字の両方を覚えるんだ。いいな」
「…………」
「返事」
「は、はい」
 促されて返事はしたものの、シンシアは、すらすらと流れるように説明したボレアスの言葉を処理しきれていなかった。
「まあ、細かい点はノートに聞けばいい。そういうのは慣れだ。それぞれ二十回書き取りな。……字の名前と読み方を教えとけ。それから身の回りの物を一通り、名称とつづりを教えて、書けるように。明日の朝にテストするからな」
 一気に言いたいことを伝え、ボレアスはひょいと椅子から飛び降りると優雅に部屋を出ていった。
「あいつ、絶対に教師には向いてない」
 ぼそりと黒猫が呟いた。
 それから一日中と翌朝の起き抜けの数時間、なんとか覚えようと頑張ったシンシアだったが、結果は予想通りだった。
「……てんでボロボロだな。不合格」
 言い渡された結果に少女と黒猫が揃って項垂れた。
 ボレアスは鼻筋にしわを寄せ、目の前の紙に目を落とした。テストは悲惨な状態だ。シンシアときたら、ギルム文字も魔法文字もごちゃごちゃになってしまっている。正直、読めたものではない。
「シンシア、ギルム文字の字母表を順番に言ってみろ」
「え……。えっと……アル、ベル、セル、デイ……」
 最後までちゃんと言えたことに小さく頷いて、次は魔法文字、とボレアスは続けた。
「ア――アル、ベー、シエー、デール、エット……」
「……とりあえずは言えるんだな。書くときに混乱する、と。……まあいい、ゆっくり直していけばいいさ」
 それからボレアスは黒猫に照準を定めた。
「小僧。おまえにはペナルティだ。二足で五分間直立」
「ちょ、まっ――無理に決まってるだろ!!」
「何かしらの弊害があれば真剣になるだろう」
「なくてもちゃんとやってる!」
 抗議もむなしく、ボレアスの合図で、何かに吊り上げられるようにノートは後ろ足だけで立ち上がった。ダイニングに悲鳴が上がる。
「無理無理無理、これで五分とか無理!」
「じゃあシンシア、おまえはその間に数字と算数だ」
 ボレアスは宣言通りにきっちり五分間、黒猫の雑言まじりの悲鳴を無視し続けた。その間、シンシアがぜんぜん集中できなかったのは言うまでもない。
 ようやく二足立ちから解放された黒猫は、ぐったりと床に崩れ落ちる。後ろ足がぷるぷると震えていた。
「お、鬼め……」
「まったく、バカなことをしてると思ったら……」
 いつから戻っていたのか、朝食後すぐに部屋から出ていったはずのダムゼルが扉に寄りかかっていた。見てたんなら止めろよな! と黒猫がつっかかるが、魔女は素知らぬ顔でダイニングテーブルに籠を運び込んだ。そしてシンシアを傍に手招く。
「シンシア、ちょっと手伝って」
「おい、まだ途中だぞ」
「どうせ数かぞえるんでしょ。いいじゃない。ついでにすれば」
 籠の中身は、ふっくらとした植物の実だった。そのひとつをダムゼルが取り出す。大きさは親指の先ほどだ。目の前には皿が置かれた。
「これはカンカズラの実。中には種が入っていて、普通は三つから四つくらい。こうして指でむけるから、種を取り出してこっちの皿に並べる。実はそっちの籠ね。皿の種が十個になったらボウルに入れてちょうだい」
「はい」
「ノート、いつまでもへばってないでサポートおし」
 ダムゼルもボレアスも、ノートには容赦がない。
 割ったカンカズラの実からは甘酸っぱい匂いがした。種は思ったより簡単にはがれ落ちる。汁気もなくて、乾いていた。
「ひとつ、誰かが目を閉じて――ふたつ、坊やが睡魔に抱かれ――みっつ、少女があくびをしたら――よっつ、母さん寝返り打った……」
 隣で魔女が口ずさみながら、自分の前の皿に種を落としていく。ころんころんと青い種は転がって、実とは違う、清涼な匂いを放った。
「いつつ、父さんいびきをやめた――むっつ、じいじが寝言をむにゃむにゃ――ななつ、ばあばが微笑んで――やっつ、月も眠たそう……」
 立ち直ったノートがシンシアの皿の横にやってきて、先を促した。シンシアは自分の手が止まっていたことに気づく。
「ここのつ、夜が目を覚ましたら――とおで誰かも夢を見る」
 ダムゼルは飽きることなく口ずさみ続けた。シンシアがそれを横で聞いていた結果、作業を終える頃には、その節がしっかり頭に染みついていた。歌の文句は、いくつか種類があるらしく、最初に歌った「夜バージョン」以外に四つほどダムゼルは披露した。中でも、ダムゼルが勝手に作った「呪いバージョン」には、ボレアスすらも呆れていた。
「ひとつ、あいつをロバに変え――ふたつ、むかつく顔には大きなおでき――みっつ、見下すやつには虫地獄――よっつ、悪口好きには舌縛り……」
「なんでそんな歌つくったんだ」
「暇だったのよ。……さあ、シンシア。もういいわ。手を拭いて」
 最後の実を剥き終え、ダムゼルの皿とシンシアの皿には中途半端な数が残った。
「これはどうするんですか?」
「もちろん使うよ。――さて、問題です。種は全部で百二十六個。半分を痛み止めにします。残りのさらに半分を目薬に、半分を熱さましにします。さてそれぞれいくつずつ使う?」
「えっと……?」
「まず半分だ」 とノートがヒントを出す。
「百の半分は、五十で、二十の半分が十で、六の半分が、三で……六十三?」
「が?」
「――が、痛み止め。それで、六十三の半分が……?」
 指で三をつくったまま首を傾げてしまったシンシアに、これは先が長そうだと猫たちが溜め息をついた。

To be Continued...
2012/09/15