「クレア。よかったの?」
 シンシアをあんな怪しげなのに任せて――。あの人間が本当に信用に値するのかわからないのに。
 そんなことは重々承知だった。覚悟の上だ。
 バサリと音を鳴らした漆黒の翼は、羽毛と近くの葉っぱを下へ落とした。崖の上に広がる森の、とある木の枝の上で木陰に紛れながら、クレアは陽に照らされる谷を見下ろしていた。今、家族たちは、それぞれ新しい巣とねぐらを作るための材料を探しに行っている。引っ越しはこれで何回目だろう。いつも、引っ越しをするのは、シンシアが別の場所へ行きたいと言った時だ。
「マジョなんて、ろくでもないのにさ」
 隣の枝に舞い降りたそのカラスに目を向けると、彼女は翼をつくろい終えて、ポンとこちらの枝に飛び移ってきた。先ほどクレアに質問を投げかけたのも彼女。クレアと同じ名付け親からレイヴという名をもらった、同じ集団のリーダー格の一羽だ。
「本人がそうしたいって言うんだから仕方ないよ」
「そりゃ、そうだけどさ……」
「子供はいずれ独り立ちするもんだよ、レイヴ。あんたも母親ならわかるだろ」
「まあねえ。遅かれ早かれ……」
 静かに息をつき、レイヴは話題を変えた。
「ところで、向こうに置いてきた若いのはどうする? 呼ぶかい?」
「ああ、そのことかい」
 今この時期は、カラスにとってはまさに繁殖期の真っ只中。つがいとなった若いカラスの一部は巣を作り始めている。その矢先の引っ越しだったため、もう巣を作ってしまったつがいは、あの“西の森”に残してきたのだ。
「今は無理だよ。ここまで遠すぎる。ヒナが巣立ってから、こっちへ来たいのは来ればいい。それまではあたしらで見張りをしよう」
 レイヴがこくりと頷いて、くちばしをカチカチと鳴らした。
「そうだね。さっきラスたちが見回ったけど、幸い、この近くに他の縄張りはないみたい。谷の向こう側だそうだよ」
「ならよかった。うちも大所帯だからね。これだけ広けりゃ、ねぐらも縄張りも十分な広さを持てるだろうさ」
 明日あたりに集団の年長たちで話し合いでもしようか、と相談し、レイヴはまた飛び立った。黒い影が羽音とともに消え去り、静かな空間がクレアを包む。どこか遠くで小鳥がさえずっていた。
「あの子も大きくなったね……」
 残されたクレアは、感慨深く呟いた。
 歩けもしなかった小さな子が、いつの間にかしっかりと地面に足をつけている。自分で行く方向を決めて、どんどん自分の足で前へ進んでいくようになるのだろう。一度は光のない世界で沈むところまで沈みきって、心が折れてしまったシンシアが。生きることを諦めようか、と弱々しく漏らした子が。
 遅かれ早かれ、こうなる日が来るだろう。そう思ったことはあっても、それはもっと先だと思っていたのだ。こんなに突然ではないと思っていた。
「あの人そっくりだ」
 カラスはその漆黒の瞳で、町を見下ろすようにして崖に建つ一軒の家を、ただ静かに見下ろしていた。

2.-魔女の住み家-

「さて、と……。なにをするかね」
 朝食を終えたあと、ダイニングテーブルの前に立った魔女は、どこともなくぼんやりと見つめながら呟いた。崩した姿勢の重心を反対側の足に移し、困ったふうにうなじをさする。
 彼女はべつに手持ち無沙汰というわけではない。目の前のテーブルには白い液体が入った小さな鍋、まな板とナイフ、粉挽き機と、さやから取り出して三日前から乾燥させていた何かの実が大量に置いてある。これからその実を刻んで挽いて、鍋の中の液体を吸わせて乾燥させる。それが本日最初の仕事である。
 魔女が気にかけているのは、テーブルを挟んだ向かいに座り、今から何をするのかと首を傾げている少女だ。灰色と黒色の二匹の猫も同じように悩んでいるのか、黙りこくって、少女――シンシアを見た。
 早朝の騒音で始まったカラスの来襲は、長い問答の末にようやく片がつき、条件付きでシンシアの弟子入りは“親”公認になった。そこまでは、よかったのだが。
 することがない。否、するべきことは山ほどある。たくさんありすぎて、何を最初にすればいいのかが思いつかないのだ。特に少女には教えるべきことが他より多い。
 考えているだけでは埒が明かないと、ダムゼルはとりあえず仕事に取り掛かる。
「どうしようかね……」
 鍋の液体をかき混ぜ、様子を見ながら、再び魔女は呟いた。湯気と一緒に、つんと鼻が涼しくなるような匂いが漂い出す。
「さっきからそればかりじゃないか」
 沈黙に耐え切れずに、ぼそりとノートがこぼした。シンシアがきょとりとそちらを見やる。
「だってねえ……。何度も言うけど、一般人の子に何から教えていいのかわからないんだよ」
 そんなことを言って、結局昨日はシンシアに何もさせず、ただダムゼルの仕事を眺めて過ごすだけで一日が終わったのだ。
「魔術の入門書を読むとか、こっち側のことを教えてやるとか、なにかしらあるだろ。それなのに何もしてないなんて――」
「何もしてないことはないでしょうよ」
 ダムゼルが憤慨して、液体をかき混ぜていた銀製の棒で鍋のふちをカンカンと叩いた。
「数の数え方も日常に使う単語の確認もしたじゃない。――ほとんどダメだったけどね」
「それだけだろ」
 物に埋もれる戸棚に向かったダムゼルの背に向かって、ノートがうなる。
「お黙り。日常会話の単語もあいまいで、魔術用語なんか教えたって混乱するだけ。無駄」
「だったら、世界のことでもなんでも……」
「世界ねえ……創世から歴史をさらえって? 創世紀、ギルム紀、ヴレ紀、ヘガ紀とか、エデ暦がいつから始まったとか?」
「そう。どうせ後々必要になるだろ」
「ま、それも悪くはないけど……」
 と、そこで何か思いついたようで、パッとダムゼルの顔が明るんだ。にんまりと上がった口角に、ノートは嫌な予感を否めなかった。果たして――。
「ほら、ノート。シンシアに家の中を案内しておあげ」
「は?」
「それがいいわ。はい、決まり。住む家の中くらい知っておかないと。その間になにか――本でも何でも、使えるものを探すから」
「案内ったって――」
「あれこれ見せて、注意することも教えておくんだよ。いいね」
 どこか肩の荷が下りたといいたげなダムゼルは、それは豪快に実を刻みにかかっていた。黒猫がうんざりと空を仰ぐ。
「聞いてないし……。やればいいんだろ、もう。――シンシア、行こう」
 フン、とダムゼルに向けて鼻を鳴らしてから、ひょいと床に飛び降りた黒猫の後に続き、シンシアは廊下へと向かった。背後からは、魔女の歌う独特の節の鼻歌が聞こえてきた。
 魔女の家の一階部分の部屋なら、シンシアはもうすべて立ち入っていた。玄関を入ってすぐの階段を下りて、右にリビング、左にダイニングとキッチン。廊下に出て向かいが洗濯場、その隣が浴室。奥の突き当りに階段があり、右は上へ続き、踊り場の左には周りの壁とは合わない深緑色の扉がある。
「とりあえず、地下室から行こうか」
 黒猫に促されるまま、シンシアはその深緑の扉の、少し錆びた金色の取っ手をひねった。扉を開いたと同時にパッと天井の明かりがつく。扉の先は少しの踊り場が伸びた後、下へと階段が続いている。
 黒猫が先を行き、きしきしとかすかに軋む階段を何度か曲がると、部屋の扉に行きついた。壁は途中からレンガ造りに変わっていた。それに湿っぽくひんやりと薄ら寒い。
「この先が地下室。主に薬草とか薬に使う材料を保管している」
 扉のノブに手を伸ばしかけたシンシアは、慌てたノートに止められた。
「待った。扉を開ける前に、まずそこの壁を押して。その少し膨らんでいる短いレンガだよ」
「これ?」
 ノートに言われたレンガは、ちょうどシンシアの腰のあたりにある。触ると他のレンガより表面が綺麗だ。躊躇いながらも押し込んでみると、どこからかカチリと小さな音が響いた。
「今ので扉が安全に開く。もしこれをしないで中に入ると、ダムゼルの仕掛けた魔法が作動して閉じ込められるから、絶対に忘れないで」
「どうしてそんなことをするの?」
「中のものを盗み出されないようにだよ。そのうち教えるけれど、魔術師には能力別に位があるんだ。ダムゼルは最高等魔術師のフォスファ、つまり一番上の位だ。薬草や材料の中には危険な魔法に使うものもあって、そういうものは所持や使用、製造や栽培が制限されている」
「所持って?」
「持っていたり自分の家に置いておいたりすることだよ」
「製造は?」
「作ること。栽培は植物を育てること。――まあとにかく、ダムゼルはほとんど使えるし持てるし、作ることも育てることもできるけど、大多数の魔術師はそうじゃない。ダムゼルには、そういう制限付きの薬草や材料をちゃんと管理する義務があるんだ」
「へえ」 とシンシアは言ったものの、実際は言葉が難しくてよくわかっていなかった。それを察知したノートは、ダムゼル以外の魔術師が勝手に使うと困るから、とだけ言い置いた。
 扉を開けた先の薄暗い地下室は、独特の匂いがしていた。森に入った時のような青臭い草と湿った土の匂い、それにミントのようにスッとする匂いと、なんだか甘い匂い、かすかに鼻の奥をつく刺激が交互にやってくる。そして少し埃っぽい。
 鼻がむずむずしたが、そんな匂いよりシンシアの興味をそそったのは、ダイニングと同じくらいの広さの部屋に所狭しと並んでいる棚だった。壁もすべて棚で埋まっている。どの棚にも、中に草の束や何かの種や球根やつぼみなどが入った、腕に抱える大きさの瓶が整然と並べられてある。
 シンシアの一番近くにあった瓶には、赤と黄の斑模様をしたつるがまとめて入っている。ラベルには手書きで、『ヘビモドキ 20本』とある。
「そのうち、これを全部覚えなくちゃならないよ」
「え、これ全部?」
 シンシアは唖然と部屋を見渡した。ここだけでいくつの瓶があるのだろう。
「ここにあるのは日光や高い温度に弱い薬草ばかりだ。上にもまだあるぞ」
 ほら次。と階段を上がるノートに続き、シンシアはもう一度地下室を見渡してから。大量の棚と瓶に背を向けた。
 それからシンシアたちは二階へ上がり、廊下に出た。右手の中ほどには曲がり角が一つあり、廊下が続いている。左手に扉が並び、この一番奥がシンシアの部屋だ。その手前二つの扉のうち、ひとつめの前でノートが立ち止った。
「ここが〈一番目〉の倉庫。室温が常温以上で保管可能な薬草や材料がある。入るには、ノブを持って、一回左に回してから……それ以上回らない? なら押し込んで、次は逆、他の扉と同じように開ける」
 またしてもカチリと小さな音がして、扉が開いた。部屋のつくりや大きさはシンシアのところとさほど変わらなかった。扉の正面に小さな窓が一つ。あとは地下室と同じように棚と瓶、そして箱にあふれている。ここは、どちらかと言えば花のような匂いが強かった。
 〈一番目〉の倉庫の隣も同じように倉庫だった。唯一の違いは、こちらの〈二番目〉の倉庫は完成品を置いている。つまり、出来上がった薬の部屋だ。棚はすべて鍵付きの戸で閉じられ、ガラス越しに見た中の瓶には、液体や粉、粒ばかりが入っている。綺麗な色から毒々しい色、形容しがたい色のものまで様々だった。
「ここは普通に入ってもいいけれど、棚の鍵を持っていない限り、戸に触っちゃだめだ。呪いをもらうから、絶対にダメ。いい?」
「…………」
「シンシア? シンシア! 聞いてた?」
「うん。“触っちゃだめ”」
「そうそう。ほら、次だ」
 次に黒猫は、〈二番目〉の倉庫を出たほぼ正面に伸びている廊下へ向かった。左右を合わせても扉は二つしかない。右側の手前にひとつ、左側の奥にひとつだ。
 先に見た右側の部屋は、まさしく物置のような書斎だった。部屋の中央には紙と本が高く積まれたテーブルが一脚。奥にはいくつもの本棚があり、そのどれもが、すべての棚の端から端までぎっちりと本がつまり、その上の隙間にさえも寝かされた本が詰め込まれている。本棚の上にもだ。
 床には見たこともない道具の大小が足場もないほど置かれている。絨毯と思しき布が一巻あったり、身の丈ほどの天秤があったり……。かと思えば、さび付いた斧が無造作に壁に立てかけられてあったり、宝石でできた大きな世界地図が吊るされていたりしている。天井を見上げれば、一面に点と線が張り巡らされている。
「わあ……」
「うわぁ、前に見た時よりひどくなってる……」
 入り口から恐る恐る首を伸ばして中を見回したノートは、怖いものを見たというふうにすぐさま廊下へ戻った。
「すごいね。いっぱいいろんなものがある」
「地下室や倉庫は綺麗に整頓できるくせに、なんでか部屋はこうなるんだよな」
 確かに、一階のリビングやダイニングの様子にしても、きっちりと整理された地下室や倉庫とは大違いだ。
「シンシア、そこは見ての通り物置。もとはダムゼルの書斎らしいけど……。怪我をしたくなかったら、入らない方がいいよ」
 中に入りかけたシンシアを押し留めてノートはまた家の案内に戻ったが、廊下の奥にあるもう一つの部屋には行かなかった。どうやら魔女の寝室らしい。
 最後に残ったのは、階段を上がったすぐ目の前にある扉だ。
「ここは温室に続いてる。下のテラスの方からも入れるけどね」
「あ……」
 扉を開けるなり目に飛び込んできたのは、一瞬くらりとするほどまぶしい光だった。日光ではない。本来なら手すり以外に何もないだろう左手の空間に、虹色に光る透明な壁がある。上へと続くそれを視線で追ってみると、それは緩やかなカーブを描いて家を覆っているのだとわかった。
 ふと右手の手すりから下を見れば、そこは昨日の朝、騒動があったあのテラスで、その中央に立っているのはダムゼルだった。シンシアは息を飲んで、その場に立ち尽くす。
 魔法だ。魔女は両の手のひらを下に向け、大きく腕を広げて空を仰いでいる。上を向いた顔がここから見えたが、目を閉じているのでシンシアには気づいていないだろう。わずかに動いているのが見て取れる唇からは、シンシアには聞き取れない不思議な言葉が紡がれている。さらに視線を下へずらすと、テラスに、魔女を中心として光の帯が複雑な模様をつくっていた。
「わ……」
 シンシアが囁きを零したそばで、黒猫が小さく笑い声を漏らした。
「結界を張り直しているんだ」
「結界?」
「守りの盾をつくる魔法だよ」
 ノートが小声でシンシアに教えた。シンシアは息をひそめて、不思議なその光景に見入っている。
 いったいどういう原理なのか、床に描かれた光の模様からは柔らかな風が吹いているようで、吹き上げられたダムゼルの服や髪がゆらゆらと揺れている。金色の首飾りも、薄い布と同じように浮かび、仰け反った魔女の喉元で光を反射している。
「もう終わりだな」
 ノートの言うとおり、ダムゼルの詠唱はそれからすぐに終わりを迎えた。
「――…………」
 声が途切れ、同時に光の模様が薄れてテラスの木目に滲んでいく。足元から吹き上げていた風もスルリとないで、舞い上げられていた魔女の長い髪がふわりと空気をはらんで降りた。最後に、家を覆っていたまばゆい虹色の光が、四方の空気に溶けるように消えた。
 直立の姿勢に戻って瞳を開き、ぐるりと辺りを見回した魔女は、満足そうに口元に笑みを浮かべた。
「これでよし」
 ふとダムゼルの目がシンシアに止まった。見つかったシンシアは、何も悪いことはしていないのに、反射的にその場にしゃがんで身を隠そうとしてしまった。柵状の手すりなので、隠れられはしないのに。
「そんなところで何してるの?」
「え、あの……ごめんなさい」
 とっさに口をついて出てきた謝罪に、ダムゼルは怪訝そうに眉を引き上げた。
「今から温室を見せに行くんだ」
 シンシアの足元で、ノートが手すりの間から顔を出して言った。
「ちょうどいいわ。あたしも行くから待っておいで」
 ダムゼルが洗濯場へ消えるのを見届け、ようやく立ち上がったシンシアは、テラスを見渡し、今さっき中を見てきた魔女の家を見た。
 レンガ交じりの緑の壁に赤い屋根。窓は不揃いで、階段も何段か軋む。家の中はわけのわからない物だらけで、時に埃っぽい。それでも、隙間風と雨漏りに苛まれ、大量の埃と砂にまみれた小屋に比べれば……。
「こんな家に住みたいな」
「なに言ってるの。ここはもうあんたの家だよ」
 やってきた魔女は、シンシアの横を通り過ぎ、その先にあるガラスの温室へと向かった。滑らかな曲線の金色の取っ手に手をかけ、ダムゼルが得意げに振り返る。
「おいで、シンシア。あんた、きっとここを気に入るよ」

To be Continued...
2011/10/23