「シンシア、石鹸は白だよ」
 顔を洗いに行った小柄な背中に、ダムゼルが念を押す。
 少し離れた場所では、灰色の猫が朝の所定位置である戸棚の上で丸くなっていた。まだ起き上がる気はないらしく、淡いアイスブルーの目を細めながら、ゆったりと瞬きを繰り返している。
 その灰色の横に、のったりとした動きで黒いのが一匹増えた。こちらもまだ眠そうに、小さな口を大きく開けて欠伸をかまし、黒い猫はゆるゆると顔を洗う。
「あ――」
 ピクリ。猫二匹の片耳が、揃って音の方に向いた。続いて四つの目が、そちらに向けられた。
 声を上げるや否や、キッチンにいたダムゼルがバタバタと廊下へ続くドアまで走る。
「歯磨き粉は下側の、右から三番目だよ!」
「はーい」 小さく間延びした返事が返る。
「タオルは使ったらカゴに入れとく」
「はーい」
 フライパン片手のダムゼルは一通り指示して、ようやくコンロの前に戻った。
 けれど、それを戸棚の上から見ていた黒猫は、まだなにか気にかかるらしく、妙にそわそわしている。顔を洗うのも途中で止まって、そのままだ。
 それを目敏く察した灰色猫は、アイスブルーの瞳を細めた。
「過保護だな……なあ小僧?」
「どうして俺に言うんだ」
 からかうように笑った灰色猫に、黒猫は渋い顔のまま、わずかに牙を向いた。その反応がお気に召したのか、灰色猫は、ますますニンマリと意地悪な顔つきになる。
「気になるだろ?」
「……」
 まったく図星で、黒猫は何も言えない。
 なにしろ洗面に向かった人物は、五歳の時以来、六年間も人間らしい生活を送っていなかったシンシアだ。“魔女の家”なんて、面白いものや危ないものが大量にある場所で、普通のものすら知らない彼女が、あれこれ興味を持つのは当たり前。何が起こるやら、必要以上にハラハラするのは仕方のないことだ。
 だが、すましたボレアスを見ていると、シンシアが気になって落ち着かない自分までもが、少女同様に未熟な子供に思えてくる。だから、今さっきも黒猫はシンシアについて行こうかと迷ったのだが、結局、歯磨きなら昨日もしていたし、洗顔くらいは大丈夫だろうとやめたのだ。それで、ダムゼルらと同じように“気にしていない”を装っていた。――無駄だったが。
「悪かったな」
 悔し紛れに、余裕の灰色猫を横目で睨みつけた時。
「あ。忘れてるじゃないか」
 ハッとした様子でボレアスが呟いた。そしてノートが首を傾げるより早く、身を起こして飛び降りる姿勢になる。その拍子に、首輪についている石が大きめの音を立てた。
「おい小娘、コップは黄色を使えよ! ピンクは触るな! 手がただれるぞ!」
 怒鳴った灰色猫は、するりとしなやかに戸棚を降りて浴室へと向かった。その先にいるシンシアからは、「ピンクって?」 と危険な返事が返ってくる。
「とにかくコップを触るな!」
 なんだ、自分だって十分気になってるんじゃないか。
 至近距離で突然の大声に襲われ、きーんと左耳に残る耳鳴りに顔をしかめたノートは、ドアに消えかける灰色猫の背を睨んだ。
 天才魔女と名高いダムゼルの家に、異色の少女が舞い込んだのは、つい昨日のことだった。

ニ章*〜カラス使いと天才魔女〜 Raven Girl and the Great Witch

1.‐夜明けの襲撃‐

「もーだめ。ねむい」
 食事の用意を終えたダムゼルは、崩れるように椅子に身を投げ出すと、深く溜め息をついた。がくりと頭を垂れ、ダイニングテーブルに肘をついて、重ねた両手の甲に額を押し当てる。
「ダムゼル、大丈夫か?」
 戻ってきたボレアスが、その姿を見止めて声を掛ける。卓上に飛び乗った猫は、気遣うように魔女の腕に寄り添った。
「だめ。寝不足だわ……」
 ダムゼルは顔を上げたものの、保っていられないのか片手で額を掴み、くまのできた顔を歪めた。瞼が、今にも落ちそうになっている。化粧も何もしていない顔色は、あまり良いとは言えない。
「昨日――いや、今日か? 結局何時に寝たんだ?」
 その場で腰を落としたボレアスは不機嫌そうに首を傾げる。
「覚えてない。……最後に時計見たのは、二時だったかな」
「体壊すぞ。今倒れたら、誰が小娘の面倒を見るんだ」
「わかってる」
 だから徹夜はしてないじゃない、とダムゼルは煩わしそうに呻く。灰色猫に説教されなくても、それくらいは承知だ。
 ボレアスが言い募ろうとするのを振り切り、ダムゼルは、パタパタと足音がやってきた方を見た。
「ダ、ムゼルさん? どうか、したんですか?」
 そっとドアの枠に手をついて、廊下から部屋を覗き込む金髪の少女。彼女は小さく遠慮がちに声をかけた。まだ緊張気味の黒の瞳には困惑の色が浮かび、落ち着かないのか、キョロキョロと忙しなく動く。
 十代前半の少女とは思えない、老婆のようなこけた頬や、落ち窪んだ目元は昨日とほとんど変わりない。だが、それでも顔色はずっと良くなっている。
「なんでもないよ」
 ダムゼルは手から額を外し、微笑んだ。
 首を傾げるシンシアから、視線を前方にある窓へ向け、眩しそうに目を細める。
「そもそもこんな時間に起きる予定じゃなかったんだよ」
 ダムゼルは、シンシアには聞こえないようにぼそりと呟いた。
 こんな時間といっても、朝の七時前。ただ、実際に起きた――否、起こされたのは、もう二時間近くも前の話だが。

*  *  *

 初めての場所だというのに、シンシアは怖いほど深い眠りについていた。
 そこは何もない闇の中だというのに、薄暗い夢に怯えることもなく。とても静かで深い場所にゆったりと漂うような、そんな眠りの中、どこか懐かしささえ覚える温かさに包まれていた。
 夜中、寒さにふと起こされることも、風やその他の物音に驚いて目を覚ますこともなかった。とても稀なことだ。もう記憶もおぼろげな故郷の村を逃げ出してから、一晩に一度や二度はざらで、何度も目が覚めるのは当然のことのようになっていたのだ。
 眠りを一切邪魔されなかったシンシアは、体が覚えた習慣どおりに、夜明け前に一度目を覚ました。ベッドの横にある窓を見たときは、正直、不思議な感覚だった。シンシアにとって夜は疲れを感じるくらい長いもの。寝入ってから次に瞼を開けたときに空が白み始めていて、“もう”夜が過ぎたのか、と思うなんて、過去にあったかどうか。
 ぼんやりと、まだ薄暗い部屋を見渡してから、またベッドに突っ伏したのも久々だ。見慣れない場所とはわかっていても、警戒心は身を潜めたままで、「気をつけろ」 とか 「しっかりしろ」 とは言ってこない。それに甘えた。
 それに、肌触りのいいシーツとふかふかした毛布は、顔を埋めても埃やカビの臭いがしなかったから、もっと寝ていたい気分にさせたのだ。柔らかくて気持ちのいい感触に包まれ、シンシアは起き上がることはせずに、そのままうつらうつらしていた。温かさにまどろみだす頭は真っ白で、それに浸るのも心地よかった。
 そして時間が過ぎてゆき――。
 それは、朝日が昇って、ほぼ時をおかずに起った。

 ガッシャーン!!!

 夜明けのゆったりとしたまどろみを唐突に壊したのは、大量のガラス、もしくは皿を一斉に叩き割ったかのような耳障りな轟音だった。
 静寂の中ではことさら際立った騒音に心臓を握られたシンシアは、カッと目を見開いて飛び起きた。
 突然の出来事に混乱してしまい、よく考えれば消した覚えのないランプが消えていても疑問に思わなかったし、跳ね起きた拍子に、同じように目を覚ました黒猫をベッドから落としても気づかなかった。傍に寝ていることも一晩寝ればすっかり記憶から飛んでいた上、なおも続く破砕音で、猫が転落した音も呻き声も掻き消されたのだ。
 混乱の中、シンシアは何事かと、外から聞こえると判断したそれの正体を求め、横にある窓を覗く。先ほども見たはずの窓から見えたのは、陽を浴び始める谷底の町でも明らむ空でもなかった。
 黒だ。
 ざわめく黒。
 もうひとつあった窓を振り返って見ても、同じだった。窓を埋めるのは黒。
 シンシアはうごめくそれが何か瞬時に理解し、慌ててベッドから飛び降りた。
「わっ――ごめん、猫ちゃん!」
 床の黒猫に気づき、危うく踏みつけかけた足を避けて、少しよろめきながらスリッパをつっかけ、扉に向かう。
 シンシアの手がノブを掴むより早く、ドアは勢いよく開けられた。
「シンシア! ――ああ、よかった」
 現れたのは寝巻姿のダムゼルだ。扉に手を打って跳ね返されたシンシアは、痛むそこを押さえて目を白黒させた。
「当たったかい、ごめんよ」
「いえ……」
「後で薬をあげるから。それより、窓は開けてないね?」
 ダムゼルは素早く部屋を見渡した。
「はい……」
 脅すような迫力に気圧されてシンシアは縮こまった。ダムゼルは、シンシアの様子など気にも留めず、窓を睨んだまま顔をしかめ、「シンシア、大人しくしておいで」 と言い残して身を翻した。
 まだあの音は止まない。
 ある不安が胸を覆ったシンシアも、その後を小走りで追って部屋を出た。
 早足のダムゼルは、寝巻の上に羽織っていたカーディガンに腕を通し、どこからともなく細長い木の棒を取り出して右手に握り締めた。
 廊下を突き進んで一階へ下り、浴室の隣の扉を押し開いて、洗濯場だと言っていたそこを通り抜けて外へ出ると、木で出来たテラスのような場所だった。右手はすぐ崖で、同じ木造の柵の向こうは、黒い壁がなければきっと見晴らしがいいだろう。反対側にはつり鐘型のガラスの建物があった。
 シンシアたちが出てきたことで、家を取り巻いていた黒の集団は一層騒ぎ立てた。
「シンシア!」
 誰かが叫んだ。
 シンシアですら数を把握しきれていなかった“家族たち”のほぼすべてがその場に揃っていた。何十という――いや、もしかしたら百は軽く越えるかもしれない壮絶な数のカラスたちの羽音が、騒音に紛れてザワザワと支配し、その場に風すら起こしていた。
 カラスたちは一定の距離を保って、家を取り巻いていた。こちらへ近づこうとすると見えない壁にはね返され、その距離を縮めることができないでいる。彼らが突進するたび、壁には虹色の波紋が広がり、そのおかげでシンシアは壁の存在を知った。
 衝突すると、壁はカンッとかシャンッとか音を発して侵入者を弾く。その拒絶の音が数多く重なって、激しい破砕音になっているのだ。
「やめなさい!」
 一度、木の棒の先を自らの喉に向けたダムゼルは、大声を張り上げた。どこからそんな声が出るのかというほど大きな声だった。
「どうせあんたたちに結界は破れないんだ! 無駄な傷を作るだけだよ!」
 怒鳴り声は、ほんの刹那、攻撃の音を半減させた。
 だが。
「シンシアに何をした!」
「何も――」
「何もしてない!」
 言いかけたシンシアは、被さるようにして響いたダムゼルの声に驚いて目を見開いた。音に驚いただけではない、ダムゼルはカラスたちと言葉が通じないと思って自分で説明しようとしたのに、考えを裏切られたからだ。
「ウソだ!」
 誰かのわめき声が、呆然としかけたシンシアを現実に繋ぎとめた。
「その子に何をした!」
「シンシアを返せ!」
「壁から出てこい!」
「その子から離れろ!」
 さきほどの音量に戻った破砕音に加えて、けたたましい鳴き声が耳朶を打つ。
「うるさい! ギャアギャアと一斉にわめくんじゃないよ!」
 敵意を剥き出しにして怒涛の合唱を始めたカラスに、ダムゼルは心底不快そうに顔を歪めて怒鳴り返した。騒音に負けず、むしろ押し返すほどの大音量で、近くにいたシンシアは思わず両手で耳を庇った。耳の奥がじんじんと熱い気がする。
「何もしてないって言ってるだろ! あんたたちはもう少し賢い種だと思っていたけど、まともに会話できる脳も持ち合わせていないとはね!」
「なんだと!」
「偉そうに!」
 ああ、どうしよう。
 ダムゼルがカラスと話せることなんて、すでに問題じゃなくなった。むしろ話せなければよかったのに、とシンシアは思う。自分が説明すればなんとか穏便に済んだかもしれないものが、もう喧嘩と言っていい激しさのこのやり取りは酷くなっていく一方だ。シンシアの不安は的中だった。
「お願い! みんな、やめて! この人は悪い人じゃないの! 落ち着いて!」
 シンシアも頑張って、声が枯れるほどに叫んでいるのだが、双方に掻き消されてしまい、カラスたちには届かないようだった。
 黒猫を襲った時のようなピリピリしている状態はとうに通り越しており、しかもこの数ではシンシアですら手に負えない。「目をくりぬいてやる」 だとか 「引き裂いてやる」 と、一部からは過激な発言が聞こえていた。
 よくしてくれた、これから師匠となる人をそんな目には遭わせたくない。逆に、カラスたちと同じくらい苛立っているのがありありとわかるダムゼルが、彼らに攻撃を仕掛けるのも嫌だ。
 両者が本格的に衝突するのだけは、どうしても避けたいというのに、渦中にいるはずの自分は無力で、シンシアは困り果てる。
 ふと見下ろせば、いつの間にか傍らには二匹の猫もいた。
「あんたがマトモだなんて言葉をよく使えるね」
 一瞬だけ騒音が少なくなったと思ったその時、シンシアには聞き慣れた声がひときわ声高に響いた。驚いたことに、散々うるさかった周りのカラスが体当たりや罵倒をやめ、その声の主の周りを空けた。
 ひらりと一羽が姿を見せる。
 クレアだ。
「卑怯なマネを。こんな囲いなんかつけて、その子を閉じ込めてるクセに」
 高い位置にいた彼女はすうっと降下して、シンシアたちの正面、壁ぎりぎりに近寄った。
「昨日、あの男どもに何をさせたんだい? 何もしてなかったとしても、これからその子をどうするつもり?」
 ダムゼルは姿勢を崩し、溜め息をついた。
「ようやく話のできるのがいたわ。……コレは攻撃の意思を持つ存在をはねつける魔法だよ。あんたたちが変な気を起こさなけりゃ、壁は現れない。……やってごらんなさいな」
 クレアは疑って、しばらく黙ったままじっとしていたが、やがて前進した。黒い体がはね返されることはなく、すうっと壁がある場所を通り、テラスへ降り立った。
「――で、何度も言うけど、シンシアには何もしてないよ。ねえ?」
 斜め前にいたダムゼルが振り返る。シンシアはその横へ進み出て、クレアに向き合った。
「うん。嫌なことはされてないよ。……見て、きれいにしてもらったの。ご飯も食べさせてくれたし、寝床もちゃんと用意してくれた」
 シンシアは少し腕を広げて胸を張ってみせた。だぼだぼの服だが清潔で破けてもいないし、見た目も、寝起きだから髪はぼさっとしているが、前に比べれば整えられている。
 クレアは、ことり、ことり、と首を左右にかしげて、シンシアをじっくりと眺めた。
「……無事ならよかったよ。さあ、もう帰ろう。こんな危ない所になんて、いないほうがいい」
 どうやら疑いは晴れたようだが、クレアは言い聞かせるようにそう言った。
「ううん――」
 シンシアが首を横に振ったら、飛び立とうとして翼を広げていたクレアはバタバタともがいて羽毛を散らせた。合わせて、黒の群衆がざわめいた。
「――帰らないよ」
「シンシア、何を……!」
「何を言ってるの!?」
「どうして!」
 カラスたちが愕然とする傍ら、ダムゼルは面白がるように唇をわずかに歪めた。
「シンシア、何を言っているの?」
 クレアが困惑した様子で首をかしげ、シンシアを見上げた。
「もうあそこには戻りたくないの」
「なら、また別の場所に行こう。あの村には戻らないよ。ね?」
「どこにも行きたくない。わたし、ここにいたいの。クレア」
 クレアの瞳が、隣のダムゼルを睨んだ。
「あんた、この子にヘンなクスリでも飲ませたんじゃないだろうね!?」
「失礼だね。シンシアは自分からあたしに弟子入りしたよ」
 ダムゼルが心外だと眉を引き上げた。「魔女になるためにね」
 カラスは威嚇するように羽を広げ、カッとくちばしを開き、声高く叫んだ。
「ダメだ、許さないよ! マジョになんかなるんじゃない!」
「ひどい言い様だね」
 ダムゼルは大して気にした様子もなく、冗談めいて口端を上げた。
 うろたえたのはシンシアだ。今まで、ここまでクレアが強くシンシアの考えをはねつけ、出した決断に拒否を示したのは、一度だけだった。たった一度だけ、だ。
「マジョになったって得はしないよ、考え直しなさい」
 きつい口調でシンシアを説得する様子は、さながら母親のようだった。
「普通の人間社会にいるより、いいんじゃないの? この子の才能を唯一発揮できると思うけどね?」
「ニンゲンのためだとか言って、危険な仕事に駆り出されるようなモノが? なのに周りには理解も感謝もされないヘンジンの仲間になれって言うの?」
 クレアはカチカチとくちばしを慣らし、自分より遥かに体の大きいダムゼルを怯むことなく問い詰めた。
 シンシアは、クレアの言う“マジョ”に、思考を鈍らせていた。
 魔術師って、そんなことするの……?
 魔法という不思議な力を使えるのだということ以外、シンシアは何も知らない。そのことを改めて思い出した。ひとつの職業なのだとも意識していなかった。ただ、言葉を話せた黒猫に連れられ、行き当たりばったりでよく考えもせずに答えを出し、成り行きに任せて弟子入りしただけ。そもそもが「拒絶され続けた自分を受け入れてくれる」という、ずっと望んでいたものを目の前に釣られ、飛びついたに過ぎないのだから。
「そこまで危険な仕事はしないよ、普通はね。それに、その変人の能力があるから、この子はあんたたちと話せるんだ。この谷にいる者は、意味もなくこの子を拒絶だってしない」
 隣では、ダムゼルが淡々とクレアの説得にあたっている。
「能力はあってもマジョになんかなる必要はない」
 ダムゼルが薄い色の目を細めた。先ほどまでの苛立ちも、少し見せたおどけも、一切が表情から消えていた。それはひどく冷淡にも見え、シンシアは少しだけ身を強張らせた。
「なら、この子の居場所はどうするの」
 急にその声音が硬く、冷えた気がした。怒りとも非難とも受け取れる響きを、シンシアは耳のみならず、肌でも敏感に感じ取った。頬がピリピリと突っ張る。
「あたしたちがいる」
 シンシアが感じたものはクレアも当然同じだったようで、警戒心を覗かせながら告げる声には緊張が混じっていた。
「シンシアは人間の子だよ。賢いあんたならよくわかってるはずだけど。カラスに紛れてもカラスにはなれないって。この子の居場所は、たとえ変人であっても人間の社会にあるべきだ」
 ダムゼルは冷えた声のまま、たたみかけた。
「それにシンシア自身の意思はどうするの。この子はここに来て、あたしの弟子にと願い出たんだ。自分の口から、自分の言葉でね」
 ぐっとクレアが言葉に詰まった。
「過去にいろいろあったみたいだけど、今この子は魔術師として居場所を求めてる。もう一度人間の中に居場所を探そうとしてるんだ。誰かに命令されて諦めるとか、誰かが邪魔して道を閉ざすなんて権利はないんだよ」
 クレアはしばらく黙っていて、それは悩んでいるように見えた。カラスたちはもう誰も突進などせず、壁の外の降りられる場所へそれぞれが群れで止まり、その場は静かだった。
 猫二匹はもとより傍観に徹しているようで、先ほどから口を出さずに会話を聞き、成り行きを見守っている。シンシアも同じだ。
 ダムゼルはカーディガンを巻きつけるように腕組みして、クレアの返事を待った。
「……あんたに、子供を心配する親の気持ちがわかるかい?」
「残念ながら子供がいないんでね。想像の域は超えないわ」
「あたしは、シンシアの親代わりだ。この子はニンゲンでもあたしたちの家族だ。まだ幼いのに、みすみす危険にやるわけにはいかない」
 血が繋がらないどころか、種族すら違うのに、きっぱりと言い切ったクレアの言葉はダムゼルの意を突いたようだ。シンシアも、胸の奥がじんとするのを感じて、とっさに服の裾を握り締めた。
「家族、ねえ……」
 ダムゼルが溜め息まじりに繰り返した。軽い口調なのに、逆に言葉は重く感じられた。
「……まあ、口出しはしないけど。なら、どうするか親子で決めてちょうだい」
 ダムゼルはシンシアの背に手を回したかと思うと、クレアの前へぐぐっと押し出した。
「ただし、ひとつだけ。魔女にならないなら一生この谷からは出られないよ」
「どういうこと!」
 クレアが鋭く鳴く。
 同じくして、とぼけた顔で振り返ったシンシアを、ダムゼルは 「もう忘れたの」 と呆れて見下ろした。
「本来、魔術師の町の周囲には普通の人間は入ってこられないように境界線を引いてるんだ。それでも境界線を抜けてきた人間は、魔法協会に記憶を消される」
 そういえば、昨日の男たち、協会警備隊といった彼らとのやり取りの中で「処置」という言葉があった。
「昨日、あたしがあんたを招いた時点で、あんたは魔術師の世界(こっち側)の人間になったんだ。魔女になって協会と契約を結ばない限り、この町を出ることはできないの。言ったでしょ」
 言った。たしかに言われた。
 ダムゼルが招いたおかげであの怖い男たちに連れられることを免れたのだ。
「魔女になるか、ならないか。それだけ決めて」

 結局、折れたのはカラスたちだった。
「魔女の修行をして、試験を受けたい」
 そうはっきり言うわりには、「なぜ?」 と聞かれても、シンシアから返ってくるのは 「だってそうしたいから」 という理由にならない理由で。そんな根拠のない、しかし断固とした意思の元、シンシアが発揮した粘り強さには、さすがのクレアも諦めるしかなかったのだ。
 シンシアとは論争というよりもただの押し問答にしかならないと早々に悟り、やれやれと首を振って、クレアというカラスはダムゼルを見た。
「この子を任せて大丈夫なんだろうね?」
「シンシアが一人前になるまで、あたしが保護者として責任持って面倒を見る。どっちにしろ、この子には人間の後見人も必要だし。危険には晒さないよ。あたしの下にいる時はもちろんだし、魔法試験を受けている間は試験官が目を光らせてるから、安全は保障する」
「少しでもシンシアに何かあったら、その時は覚悟してもらうよ」
「じゃあ……っ」
 シンシアだけでなく、周りにいたカラスもクレアに注目した。
「気持ちはわかった。好きにおし」
 ざわりと黒の集団がどよめく中、シンシアはにこりと微笑んだ。
「ありがとう、クレア。わたし、頑張って魔女になる」

To be Continued...
2010/07/25