*-Extra Story-.

「あの子を本気でうちに置くのか?」
 そう言って、灰色の猫がベッドの横にある椅子に飛び乗った。ノートが一階に下りてくるまでの間、ダイニングで問いかけたセリフをそのまま、目の前の魔女へ投げかける。
 密かな集会が終わり、ノートはまたシンシアの部屋へ戻った。同じく二階の寝室に上がったダムゼルは、ハーブティーを注ぎ足して持ってきたカップをベッドのサイドテーブルに置き、灰色猫を一瞥した。
「またそれ?」
 カップを置くだけでベッドを離れた魔女は、面倒そうにシンプルなドレッサーの前に腰掛け、鏡越しに猫へと視線をやった。
「まだちゃんと聞いてない」
 灰色猫は不満げに唸り、ぴんと伸びたひげを揺らした。さっきは黒猫が戻ってきたせいで、彼女には話をはぐらかされたままだったのだ。
 魔女は小さく溜め息をつく。
「なにを今更。何か気になることでも?」
 少ない化粧品の中から二つだけ瓶を取り出して、それなりに顔へ馴染ませながら、ダムゼルも、先程のダイニングでの会話の始まりを再現するかのように、同じセリフを返した。
「……問題はあんただ」 と、静かな声。
「仕方ないじゃない。弟子の面倒は見ないと」
 最低限といった美顔術は早々に終え、ブラシでささっと髪を梳かしたダムゼルは、今度は手に薬用の保湿クリームを馴染ませる。顔のときとは違って、こちらは念入りに、塗り残しのないように細部まで擦り込んでいく。家事に加え、薬草の世話や薬作りなどで、冬場には辛い水を使う手を労わるように、数種類のクリームを重ねていく。手の手入れはしっかりしておかないと仕事に差し障る。あかぎれでもできれば一大事。調合する薬に僅かであろうとも血を混ぜ込むことはできないのだ。
 手を擦り合わせながら立ち上がって振り返ると、ようやく魔女と灰色猫の目が合った。
「それより前の話だ。そもそもどうして引き受けたんだ。あの時、警備隊の奴らに渡せばよかった」
 ここまで、双方が言っていることは、先程とまったく同じ内容の繰り返しだった。淡々と響く声を聞きながら、ベッドに座ったダムゼルは意外そうに片眉を引き上げた。
「どうしてって言われてもね……」
 ダムゼルは、ハーブティーのカップに口を寄せた。またはぐらかそうとする淡々とした軽い口調に、暗がりに浮かぶ寒々しい色の瞳が細められた。
「昔の自分と重ねて同情でもしたのか?」
「……っ!」
 驚いて肩が揺れてしまい、ダムゼルはあやうくカップの中身を零すところだった。
「なんで――」 と勢いよく顔を向けて言いかけて、言葉は途切れた。問いかけようとしたその答えを、自分はすでに知っていたと気づく。思い出してしまえば、動揺もすぐに落ち着いた。
「――そっ、か……。あんたも知ってるんだったね」
 ダムゼルは大きくなりかけていた声を抑え、溜め息をつくかのように呟いた。見開いた目を伏せて視線を外し、服とベッドが無事かを確かめた。どちらも、ハーブティーの被害は被っていないようだ。
 灰色猫は少しの間だけ、ダムゼルと同じように目を伏せた。
「悪いな」
「…………別に、重ねてなんかないよ。あたしとあの子じゃ違いすぎる」
 ダムゼルはカップをテーブルに戻し、代わりに、雑に積んであった本の中から、一番上の一冊を取り上げた。皮の表紙は色あせてボロボロで、中のページも茶色く変色している。綴られている文字も、解読に少々難がある代物だ。その古い魔道書を開くことで、ダムゼルは、心を見透かそうとする目の前のアイスブルーから逃れた。昔から、この目に正面から見据えられるのは、あまり好きではなかった。
「どうして厄介事をわざわざ背負い込むんだ? あの小僧の時だってそうだ。ストレス死でもしたいのか?」
 視線を外したことで不機嫌を募らせるその声に、ダムゼルは 「さあ?」 と肩を竦めて見せた。
「あたしだって、あの子が動物語使いじゃなかったら警備隊に引き渡してたよ」
 前書きと目次に目を通し、続く本文の見出しにゆっくり視線を移していく。ページを繰りながら、ダムゼルは正直なところを述べた。
「動物語使いだから――それだけの理由か?」
「そう。もともと動物語使いや植物念話者と関わってみたかったの。それに、あの子には少し興味が湧いてね。わざわざ一緒に住まわすのだって、観察するのに好都合だし。弟子入りはその口実にもってこい。……違う?」
 本の文字を追って、左右にゆらゆら揺れる魔女の目を、ボレアスはじっと見続けた。
「とにかく、一度引き受けたからには投げ出さない。試験を受けられるようになるまで面倒は見る。それだけ」
「自分のことで精一杯だろ。魔術師の常識はともかく、普通の常識すら知らないあの子に、一から教える暇と気力はあるのか?」
「ない」
 きっぱりとダムゼルは言い切った。
「だからあのバカに目付け役を命じたの。たいがいのことは教えられるでしょ」
「あんな小僧に務まると思うのか?」 と怪訝そうな声に、ダムゼルは顔を上げた。
「思わない。どう考えてもノートだけじゃ力不足だろうね。――でも、もう懐いてるみたいだし」
 シンシアはどうやら黒猫を気に入っていると見受けられる。ノートの方も、彼女をわざわざ連れてくるくらいなのだから、かなり気にかけているのだ。なら、双方とも、これから互いに良い関係になることが望める。
 シンシアにとって、魔術師について知っている黒猫は万能の辞書のようなものだ。加えて、おそらく人間に警戒心を抱くだろう彼女には、事情を知り、かつ助けてくれようとした黒猫は安心のできる味方。魔法試験ではどうしても人と関わらなければならないし、見ず知らずの他人が大勢集まる寮での生活が心配されるところだ。ノートがすぐそばにいることで、少なからず心の支えにはなるだろう。
 一方、ノートにとっても、少女の存在は決して悪くないはずだ。シンシアとはまた違う問題を抱える黒猫に、良い刺激になるかもしれない。こちらについては、まだ可能性はおぼろげでしかなく、良い方へ転ぶか、はたまた悪い方へ転ぶかは神のみぞ知るところだが。
「ああいう何にも知らない子がきちんと育っていくのは、見ていて楽しいものがあるのよね」
 冗談まじりに言うと、「だったら教師にでもなればいい」 と、灰色猫は冷ややかに言った。魔女は口元にニヤリと笑みを浮かべる。
「それとは少し違うのよ」
「そうか?」
「そう。それにシンシアだけじゃないよ。上手くいけばノートも一緒に躾け直せる」
「小僧は手遅れじゃないのか?」
 ダムゼルは、投げ遣りなボレアスをちらりと見た。前足でクッションを押して、居心地がいいように形を整えているので、もう寝るつもりのようだ。
「まだ大丈夫。……だから、あんたも手を貸してやってくれると嬉しい」
 椅子の上のクッションで丸まった猫を見つめて、ダムゼルは小さく微笑んだ。猫のひげと耳がピクリと震える。
「まあ、少しくらいはしてやるけど……」
 できれば嫌だ、と言いたげな曖昧な返事だが、渋々なりでも手伝ってくれることは承知済みだ。それでも、今回だけダムゼルは念押しすることにした。
「あたしは、あんたに専念したいから」
「わかったよ。手助けでも子守りでも、なんでもしてやる。それでいいか?」
「ありがとう」
 魔女が満足げに笑みを見せれば、ボレアスはすねたように顔を背け、片方の前足におとがいを乗せて、目を閉じた。
「早く――」
「知ってる。ごめんな」
 呟いた言葉にすかさず返事が来て、ダムゼルは困ったように薄く苦笑を浮かべた。耳を垂れる灰色の猫を見て、彼女は胸に小さな吐き気を覚える。
「あんたも好きだよ」
「……」
 その言葉にどんな返答も来ないのはいつものことで、ダムゼルは、ほんの少し猫を見つめ、やがて本へ意識を戻した。
 また本に落ちた視線と交代に、アイスブルーの瞳が片方、そっと現れた。薄く開いた片目で、ボレアスは本に集中し出したダムゼルを窺う。真剣な目と引き結ばれた口の横顔。それらはいつもと同じでも、うつむく表情は、彼女が本を読むために灯した光のせいか、とても深く陰っていた。それがひどく悲しげに見えた。それでも、ボレアスは黙ったまま、ダムゼルに気づかれないうちに目を閉じた。

 薄れゆく雲が移動して覗いた月が、すっと暗い部屋に光を差し伸べる。今夜の月は、仄かに白かった。
 カサカサとごく小さな音を立ててページを辿っていた指がふいに止まる。魔女はふと、どこかで聞いたおとぎ話を思い出していた。
「さて、嫌われ者の醜いカラスの子は、美しく立派な魔女になるかしら」
 呪文でも唱えるような魔女の呟きが、深い夜の闇に溶け込んだ。

To be Continued...
2010/03/13