9.

 枕元の小さなランプの明かりだけが、部屋を薄暗くオレンジ色に照らす。
 ノートを先にベッドの上に降ろし、シンシアもパタ、パタリと床にスリッパを落としながら、清潔なシーツが敷かれたベッドによじ登った。膝立ちしてベッドの上を進み、横の窓に掛かるカーテンを両手で押し広げて、外を覗く。そのまますぐに腰を落とすのかと思えば、体はそれ以上動きを見せなかった。
 ぼんやりとした眼はその向こうに釘付けのまま、ゆらゆらと揺れる。
「シンシア?」
 小さく問いかけるも、窓に――窓の向こうに夢中になっているらしい彼女には聞こえていないようだ。
 シンシアの横でお座りして見上げるノートは小首を傾げる。
 窓の外に、そんなに珍しいものはあっただろうか。
 この窓は丁度崖に面して、そこから見えるものと言えば、下へ続く谷と町並み、そして空。空を挟んで向こう側の崖の上には、こちら側と同じように森がある。確かに、町に面するこちら側は、家の反対側に面する窓よりも見晴らしはいいが。
(この時間に外なんて見えないだろうに)
 記憶上、夜はそういった外の景色なんて見られるはずもない。とにかく距離があるせいで、空も谷も町も、全部が暗闇に混じってしまうのだ。今夜は空も曇っていて、月や星が見えるわけでもない。
 シンシア、何見てるんだ? ――そう訊ねようと口を開きかけたノートより、呟くような彼女の言葉が漏れるのが先立った。
「きれい、だね……」
 ノートは片眉を引き上げ、ますます首を捻る。
「光……」
 そう聞いて、やっと納得できた。
「そう?」
「うん。こんなにいっぱい光ってるのは、初めて見た」
 町の街灯や窓に灯る光のことを言っているのだ。もう見慣れている光景なので、さして綺麗とも思わない、ノートにとっては“普通”の夜景である。
 けれどシンシアにとっては、どうだろう。ここまで大きな町は初めてのようだし、ああして一人になってからは風景などに魅せられている余裕などなかったかもしれない。
「もう過ぎたけど、新年祭はもっと綺麗だ」
「本当に?」
 ようやくシンシアの丸くなった目がこちらへ向けられた。
「ああ。夏至の流星祭の時も、もっとキラキラしたのが見れる」
 何でも祭りとなれば、魔法協会の率先と安全を考慮する監視の下、住民も張り切って飾り付けを楽しむ。もちろん魔法を使って、それはそれは盛大かつ独創的に。そうしたお祭り騒ぎにあまり興味のない者が、その期間の街を歩くことを嫌がるほどだ。
 シンシアはそれを想像したのか、目を細めて口角をにっこり引き上げ、もう一度窓の景色を目に映した。
「楽しみ……」
 囁いて、直後、込み上げた大きな欠伸を抑えられなかったシンシアは、ぺたりと座りこんだ。押し上げていた手が離れ、カーテンは揺れて、ゆっくりと元の位置に戻った。
 シンシアはそのままベッドに倒れこみ、枕よりずいぶん下にも関わらず丸くなった。ぎゅっと握った両手を胸に抱き締めて、折りたたんだ足を体に寄せて、まるで動物がうずくまって寒さに耐えるような恰好だ。それでもシンシアは柔らかく笑っていた。
「ノート」
 シンシアが小さく猫を呼んだ。
「なんだ?」
 猫は枕元に座り込んで、シンシアの顔を覗き込む。そこではじめて異変に気がついた。
「わたし、夢を見てるのかな……?」
 暗い瞳から、一筋、透明な滴が目尻から零れ落ちた。すぐさまシーツに染みていく。
「誰かに、優しくされたの……カラスじゃない、誰かに……。わたしに話しかけて、笑ってくれるの……」
 ぱたりと瞬きしたら、別の一筋が溢れて零れ、鼻筋を横切って落ちていく。シンシアは気づかないみたいに、ぽろり、ぽろり、小さな涙を流し続けた。
「わたしを……ね、気持ち悪いとか、魔物の子とか……言わないの……。カラスと話してたのに。みんな、気味悪がるのに……。わたしを変な目で見なくて……。悪口も、言わないの……」
「ボレアスはバカにしてたぞ?」
 ノートはさっきの胃腸薬の件を思い出す。それよりも前から、あの灰色猫は他人を見下して、さらには小馬鹿にして笑う節があるのだ。元々優秀な魔法使いらしく、偉そうな口の利き方でも、言うことは正論で間違っていないが――むしろ、それを自覚した上での挑発じみた口調と嘲りときたものだから、なかなか嫌な性格である。とにかくノートは彼が苦手だった。過去に些細ながら色々あったことを思い出し、ノートは苦々しく顔を歪める。
 だが、シンシアは 「違う」 と首を振った。
「違うの。ボレアスさん、村の人と違って、優しいから」
 そうなのか? と、ノートは心から首を傾げた。「意地悪」ならともかく、「優しい」など一番似つかわしくない言葉なのに。甚だそう言ってやりたかったノートだったが、黙ってシンシアを見つめた。
「お風呂、久しぶりだった……。きれいな服も……。あんなに、温かくておいしいご飯、っ、食べたのも」
 ぼろぼろと大粒になった滴は、シーツに冷たい染みを広げていく。ぐずっと鼻をすすり、シンシアはふっと息をついた。
「こんなの、久しぶり……。すごく、嬉しい……」
 シンシアはゆっくりと瞼を閉じた。それから袖の端っこで目元を拭った。
 もう汚れていないこけた頬は、これから徐々に柔らかくふくらんでいくのだろうか。骨と皮だけの手足も、年頃の少女たちのように、瑞々しさを取り戻せるのだろうか。
 そんな心配がふと頭に浮かんで、ノートは目を伏せた。
「ノートのおかげだよ……」
「まだ、だ」
 続きそうだったシンシアの言葉をノートは遮った。前足の肉球をぽんとシンシアの腕に置くと、ぱっと開いた瞼の下、暗い色が現れた。その中に自分の顔が映る。中でも、空色の瞳が一番はっきりと浮かんでいた。
「そんな言葉はまだ早い。あんたが一人前の魔女になってからだ。そうでないと意味がない」
「うん……」
 言葉の意味を理解できていないのか、それとも眠くて頭が働いていないのか、わかってなさそうな顔で、シンシアはただ猫を見返した。
「意味のない言葉は聞きたくない。――だから、これから頑張れ」
「うん……。でも、ありがとう……」
 とろんとした目を閉じ、にっこりと微笑んだシンシアは、落ちていく意識と呼吸に消えるような声で呟いた。そして、そのまま穏やかな寝息を立てて、すぐに眠りについた。
 しばらく様子を見つめていたノートは、シンシアの足下に押しやられたままの毛布を引っ張って、小さい体で苦戦しながらも丁寧に少女の上にかけた。それから枕元の台に飛び乗って、ランプの火を消した。
「おやすみ」
 ノートは、シンシアが深く眠った頃まで――とは言っても寝入ってから三十分くらいだ――ベッドに伏して時間を潰した。自分まで眠ってしまってしまわないよう、時おり雲間に顔を覗かせる月を眺め、じっとしていた。
 壁の時計が十時半を回った時、もういいだろうと思って、尻尾でシンシアの足を軽くつついてみた。ぴくりと動いたが、それ以外に反応はない。それを確認してから、ノートはするりと音もなくベッドから降りた。
 扉に向かうと見計らったように音もなく薄く開き、ノートが通るとまた閉じる。そうして部屋を抜け出してからダイニングまで、ノートはかすかな床の軋み以外、一切の音を立てずにやってきた。
 ダイニングにはまだ明るい電気がついている。ぼそぼそと話し声が聞こえた。
「だから――、来たな」
 食器類を片付け終わったダイニングテーブルでは、ダムゼルとボレアスが待っていた。二人して何かを話していたようだが、先にノートに気づいたボレアスが会話を打ち切って、薄い瞳を向けた。
 ノートも二人の会話には興味ないので、さっさとテーブルに飛び乗って――ほぼ同時にダムゼルが顔を上げる――双方の向かいに座った。
「あの子、もう寝たの?」
「ベッドに入るなりすぐだった」
「そう。今日は疲れただろうね」
 テーブルの上に腕組みしていたダムゼルは一度頷き、片手を重そうに立てて頬杖をついた。
「……それで、詳しく聞かせてもらおうかしら」
「まず――彼女がいたのは、かなりの辺境の小さな村だ。魔法協会の短縮空間を使っても、谷に来るまで二時間近くかかった。周りには森しかないし、北よりの西部だから、ここより少し気温も低い。それで――」
 ノートは、シンシアの腕に抱かれてボロの隙間から覗いた村の様子と、手当てするときに話してくれたシンシアの顔とを思い出して、少しうつむいた。
「ひどい疎まれようだった。あの子は、日中は森の中でひとり、カラスと過ごしてて……彼女が帰ってくるだけで、村の空気が一瞬で変わるんだ。化け物だの魔物の子だの、相当――中には悪魔祓いのまじないを唱えるやつもいた。とても張り詰めてた。……もしカラスたちが村人を威嚇してシンシアを護ってなかったら、連中はあの子に何しても不思議じゃない」
 淡々と話すうちに、ダムゼルやボレアスの目つきが険しくなっていった。
「住んでたのは、倉庫みたいな古くて小さな小屋だ。雨を凌げる程度で、室温は外気温とほとんど変わらなかった。あるのは壊れかけの椅子と埃だらけのベッド。窓もない」
 そこでダムゼルが引き結んでいた唇を開いた。
「……母親か、父親は?」
「父親は小さいときに死んだらしい。残った母親は娘を怖がって、シンシアが五歳の時に教会に預けた。そこでお祓いとお清めだとさ」
「ふん。くだらない」
 ボレアスが鼻を鳴らして吐き捨てた。
「同感だ。――シンシアは、半年後にそこを逃げ出して、それからあちこちの村を移動したらしい。その度にカラスたちが増えて、今じゃあ数十羽の大群になってる」
「そうかい……もういいよ」
 ダムゼルは溜め息混じりにそれだけ言った。深刻な表情で黙りこくった後、一度ボレアスと目配せをして、手元に置いていたカップの中を一口飲んだ。もう湯気も薄くなっているそれは、匂いからするとハーブティーだった。ダムゼルがいつも寝る前に飲むやつだ。
「――母親は、確実に普通の人間だね」
 取っ手に手をかけたままテーブルに置いたカップを眺めながら、ダムゼルが言った。
「もし彼女が魔女なら、生まれた子供が動物語使い(アニマリンガル)だったら大喜びするはずだよ」
 ボレアスもノートも頷いた。
 そう、絶対に。
 たまに、いるのだ。なにか特別な能力を持って生まれる者は。限定的な動物と話せる者、植物の気持ちがわかる者はその代表格。それぞれ「動物語使い(アニマリンガル)」、「植物念話者(プランテレパス)」と呼ばれる。魔術師は呪文さえ唱えればそんなことも可能だが、生まれながらにその能力を宿すとなると、その子は異端児ではなく“将来有望”だと言われる。魔術を扱う能力――魔術師となる絶対不可欠の素質だ――を持つ人間はもちろん珍しいが、その中でもさらに希少な存在なのだ。毎年多くの見習いが魔術師になるため受験する魔法試験でも、そういった“特殊”は平均して年間に一人二人、いるかいないか。歴史を振り返れば、彼らは魔術に関して大きく成長をみせ、数々の功績を残して偉人となるものが多い。未だその能力の遺伝についてなど詳しいことは解明されていないが、とにかく、将来性があるのは確か。そんな子が生まれれば親も鼻が高いわけだ。羨まれこそすれ、忌み嫌われることはなかろう。
 それに、魔女ならカラスを恐れたりなどしない。仕事で世界各地へ赴いた際、賢い情報網として噂や何やを訊くのにカラスは最も珍重されているのだ。
「だとすると、父親が魔法使いだったかな」
 ノートは呟いたが、ダムゼルもボレアスもはっきり同意はしなかった。
「どうだろうね。魔術師の血を引いてなくても、たまに魔法を使えるのはいるから」
 もしかして魔術師であることを隠していたのではないか、とも思ったが、ノートは即座に考えを一蹴する。打ち明けていようと隠していようと、どっちでも一緒だった。仮に父親が魔術師だとして、正体を隠していたなら、普通の者同士の間に生まれた異端児。打ち明けていたとしても、その土地はカラスを「悪魔の使い」と忌む風習があるのだから、魔法使いなんてわけのわからない相手と結婚したから変な子供が生まれた、なんて考えるだろう。
 親がどうであれ、彼女はこういう道を辿ったことに変わりはない。もはや調べる理由もなければ、知ったところで今更、何の役にも立たない。
 ノートは完全に追求をやめ、そのことを記憶にしまいこんだ。焦点を合わせずただじっとテーブルを見ていたノートは、目をぱしぱしと瞬かせて視界をはっきりさせ、顔を上げた。再びダムゼルが言葉を紡ぐ。
「まあ、あの子の不幸は、話せたのがカラスだったことだろうねえ」
「魔女にしちゃ、かなりの幸運だがな」
 一人と二匹は、それぞれに溜め息のような同意の声を上げ、しばらく沈黙した。カチ、コチ、と壁の時計が時を刻む音や、流しの蛇口から滴った水の音だけが響き、静かな場を無性にしんみりとさせる。三者とも、誰かが話すのを待っているようだった。
「なんにせよ、」
 役を買ったのはボレアスだった。
「やっぱり才能はある」
 静けさを破って、灰色猫はにやりと笑った。面白くて仕方がない、と言いたげな愉快そうな笑みだ。声にもそれは滲んでいる。ダムゼルも、その視線を受けて同じように口の端を上げた。
「だね。きっと無意識に使ってるよ」
 一匹だけ首を傾げるノートに気づき、ダムゼルはそちらを向くと目を細めた。
「わからないかい? 村を移動するのに、方角はカラスの案内があったとしても、この物騒なご時世――武器も持たない子供には危険すぎる。クマやオオカミの群れみたいにカラスじゃ敵わない野生動物に遭遇しないとは言い切れないし、魔物なんかに出会った日には死ぬしかないね」
 おどけたようにダムゼルは言うが、笑い事ではない。ノートは少しだけ鼻に皺を寄せた。ダムゼルは頬杖をついて、シンシアの部屋がある方向を見上げた。
「あの栄養状態の悪さや不衛生で病気にならないのも。ここより北の地域にも関わらず、薄着で冬を越せたのも。――知恵のある大人がいるならまだしも、子供がたった一人で六年も続けるなんて無理があると思うよ」
「一昨年の寒波、去年の水不足と猛暑……気候の変化に倒れなかったのも不思議すぎる」
 ボレアスも拍子を取るように尻尾を揺らしながら、ダムゼルに続いた。男の声に 「そんなこともわからないのか」 と馬鹿にする響きがあり、ノートはぶすっとそっぽを向いた。
「あの子、生きるために魔法を使ってるんだよ」
 向かいで結論を言ったダムゼルの声は、先ほどの愉快さを残しつつも、しっとりと重みを増していた。
「存在すら気づかない自分の力をね。きっと、――いろいろあっただろうねえ」
 青にも黒にも銀にも見える不思議な色をしたダムゼルの瞳は、手元のカップを見つめて、揺れたように見えた。口元は笑みを作っていても、瞳が曇り、目元は影が落ちてひどく暗い。鼻を境に上下で異なるその奇妙な表情は、ダムゼルが時折見せるものだったので、ノートも特別に驚きはしなかった。
 ダムゼルは言葉をあやふやにしてしまったので、彼女がシンシアをどう思ったかはわからない。ただ本当に、ダムゼルの言うとおり、いろいろあっただろうなと思った。
「ノート」
 名を呼ばれて視線を合わせると、ダムゼルはしっかりとした魔女の眼差しで黒猫を見据えた。
「おまえがあの子を連れてきた理由、ひとつでもあるはずだ――それをちゃんと覚えておいで。まだ短い今までと、どれくらいになるかわからないこれから先、あの子に感じるものはしっかり拾っておくんだよ」
 まず目を逸らし、それから徐々に下向いていく耳と頭。ダムゼルは黒猫の様子に構うことなく言葉をかけた。
「結果がどうあれ、最後まで見届ける覚悟でね」
「……」
 黒猫の小さな小さな無言の頷きで、その場は一度閉じられた。

To be Continued...
2010/02/09