8.

 ほら、起きなさい。

 いい匂いと女の人の声と一緒に揺さぶられた。
 ぼんやりとしながら薄く瞼を開けると、目の前の半分が筋の入った茶色で覆われていた。
「う……う?」
 ベッドじゃない。“西の森”でもない。
 今の状況がわからず、シンシアは鈍い頭をひねった。
「邪魔だよ、シンシア。頭をお上げ」
 こんこんと軽く頭をノックされ、起き上がると、どうやらテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたようだった。テーブルに触れていた顔の半分が少し痛い。触ってみると、ぼこぼこといくつもの筋の跡がついていた。
 テーブルの向かいにはフライパンを持ったダムゼルがいて、次々と皿を並べていた。
 そうだ。あの村からは離れたんだ。
 シンシアは周りを見渡して、ようやく記憶をたぐりよせた。
 黒猫に――ノートに連れられて、魔女の町がある谷に来たんだ。魔女になるために、目の前の女性に弟子入りをしたんだった。
 眠る前のことを思い出し、シンシアは今までのことが夢でなくてよかったと安堵した。ほっと息をつくと体の力が抜け、押さえる間もなく欠伸が一つ出た。
 どことなく部屋が暗いと思い、背後を振り返ってみると、窓の外はもう夕暮れを終えていた。前に向く途中で、廊下に続くドアの横の壁に時計があることに気づき、見るともう七時だ。
 ふと横を見ると黒猫が丸くなっている。
「場所が足りないね。ちょっと退いておくれ」
 ダムゼルの声に自分のことかと反応する。
 けれども違ったようだ。
 テーブルにはシンシアよりも邪魔な物がある。
 ダムゼルがシッシッと手で払う仕草をすると、テーブルの半分を占領していた物の一部が浮き上がり、部屋を取り囲む山の上にどちゃりと積みあがった。
 空いたスペースを濡れたふきんが綺麗に拭き取り、新たな皿が並べられる。
 シンシアの前にも湯気を立てるスープや煮込み料理、サラダが盛られていった。
「わあ……」
 美味しそうな匂いで、シンシアのお腹が大きな音を立てた。
 シンシアは恥ずかしさで頬を染め、お腹を押さえて縮こまる。
 けれど、きらきらと輝く目は料理に釘付け。なにしろこんな料理はずっと見ていなかった。
 どんな味がするんだろう。
 思い始めたらきりがなく、食欲だけが膨らんでいく。
 おいしそう。おいしそう。おいしそう。
「こらっ」
 そろそろとパンに伸ばしたシンシアの手を、ダムゼルが素早く叩いた。
「つまみ食いは行儀が悪い」
 叱りつけてから、ダムゼルはスカートのポケットに手を突っ込んだ。
「ほら、あんたはまずこっち」
 軽く叩かれた手を引っ込めてさするシンシアの前に、小さな瓶が突き出された。中には、変な色の液体が入っている。少なくとも森の中での生活では見られない色だ。
「ろくにご飯も食べてなかっでしょ。先にお飲み」
 ダムゼルはほら、と催促して瓶を振る。
「なんですか、これ」
 受け取ったシンシアは、ちょうど片手で握りこめる大きさの瓶をしげしげと見つめてから、振り混ぜてみた。たぽんたぽんと液体は揺れる。水よりも、もっとトロトロしていた。
「栄養剤と調合した胃腸薬。あんた、きっと胃が弱ってるよ。それは消化を助けてくれる」
 胃とか消化の意味はなんとなくしかわからないものの、親切を素直に嬉しく思い、少し顔をほころばせた。
「ありがとうございます」
 だから、瓶の蓋を開けた瞬間に鼻をついた異臭にはショックが大きかった。一瞬にして笑みは崩れ、シンシアはこれでもかと顔をしかめてむせこんだ。
 顔を離して、すぐさま蓋をしめる。
 先ほどの美味しそうな料理の匂いの後では、なおさら強烈だった。
 近距離で瓶を開けてしまい、顔にかかってしまった臭いを取り払うため、シンシアは頭を振る。
 何かが刺さるように刺激される鼻が気持ち悪く、シンシアは鼻の下をぐしぐしとこすって、スンスンと鼻を鳴らした。それでも異臭は奥にこびり付いてしまった。息をするたび、わずかに甦る。
「…………これ、……飲まないと、だめですか?」
「良薬口に苦し。まずいだろうけど飲むまで食べさせないよ」
 仁王立ちして待つダムゼルを見て、シンシアは嫌そうな顔で瓶を見つめた。
 あの強烈な臭い。まずいどころか絶対口にしてはいけない部類の臭いだ、と本能が頑なに拒む。臭いがきついなら味だって同じくらいきついだろうし、シンシアの予想では、きっと臭いと味は同じだ。臭いが取れないなら、味だってなかなか消えないに決まっている。
 決心、できない。
 目の前の料理はおいしそうにシンシアを誘っているのに。
「どうした? 飯はいらないのか?」
 上からかかった声に見上げると、玄関側にある背の高い戸棚の上にボレアスがいた。
「鼻でもつまんで、一気に飲めば少しはマシだぞ」
 ボレアスは楽しそうにニマニマしながら、そんなアドバイスを寄越した。
「ほら、水もここにあるから早く飲んじゃいなさい」
 グラスをシンシアの前に置き、ダムゼルは催促する。どうにも逃れられそうにない。
 シンシアのお腹も、まるで催促と抗議をしているかのようにぐるぐると鳴る。
「…………」
 シンシアは口を開き、鼻での息を止めてから、再び瓶の蓋を開けた。
 口をつけるより前に、拒絶反応でか吐きそうになる。シンシアは一度つばを飲み込んで深呼吸してから、一気にぐいっと瓶をあおった。
 ところで、ボレアスの言うとおりに鼻をつまんだが、これでは飲むときに息ができなくなる。
 シンシアは、海なんて見たこともなく――単語すら知らないので、その話をしないカラスたちもたぶん知らない――川でも腰より深い場所に入ったことがないため泳いだこともなかった。つまり、息を止めることに慣れていない。
 なのにシンシアは薬を飲む直前、深く息を吐き出してしまった。本当なら息を止める間の分を吸うべきだったのだ。
 それでは苦しくなるのも当然だが、息苦しさに気づいた時点でシンシアの体は空気を求め、素直なことにシンシアは、まだ薬が残っているのに鼻をつまむ手を離してしまった。
 とたんにシンシアの味覚を襲う、えげつない味。本能は吐き出そうとした。それを阻止して、シンシアはえづきながら無理に残りを飲み下した。
 最後の一滴まで耐え、瓶を口から離すなりシンシアは激しく咳き込む。
「うえ、ええぇ……!」
 口をひん曲げて薬色に染まった舌を出し、うめいたその目には涙が滲み出る。
 シンシアの顔がよほどおかしかったのか、間髪いれずにボレアスが噴出した。爆笑するだけでは飽き足らず、棚の上で転げる笑いぶりだ。
 そんなボレアスにつられてか、シンシアの隣にいたノートまでも――こちらは笑ってはいけないという理性との葛藤が見え、ぷるぷると体を震わせながら必死に堪えていて苦しそうだ。
 シンシアは猫二匹に構ってなどいられない。気を抜くとすぐにも逆流しそうなのだ。
 目の前のダムゼルは笑い混じりで呆れた顔。
「おバカだね。なんで手を離したの」
 水が差し出され、シンシアは一気にあおった。
 口にしたこともない奇妙な、それでもまずいと断言できる味は、水を飲んだくらいで消えやしなかった。
「ああ、ほら、これでもお食べ」
 ダムゼルがフォークとスプーンを差し出して、手近な皿をシンシアに押しやった。
 シンシアは受け取るなり、その煮込み料理をほおばった。味を消すためにも料理をしっかり味わって食べる。三口目からようやく美味しい味がわかるようになった。
 ダムゼルはフライパンに残っていた料理を浅い皿に入れ、からになったフライパンを流し台へ向けて放った。手を離れてもフライパンはふわふわと飛んでいき、がちゃんと流しに収まった。
 自分の皿の隣にその皿を置き、ダムゼルも席についた。
「ボレアス」
 ダムゼルに呼ばれたボレアスはようやく笑いも落ち着いたようで、戸棚から降りてきて、ダムゼルの横からテーブルに上がった。
 どうやらあの皿はボレアス用らしい。灰色猫は、腰を下ろして浅皿を両腕で挟むと、零したり口元を汚したりすることなく丁寧に食べ始めた。
 その様子を見て、シンシアはフォークを運ぶ手を止め、隣を見下ろした。
「ねこ――ノートは食べないの?」
 昼間は果物ひとつしか食べていなかったのに、黒猫にはボレアスのように皿が出されていないことを変に思った。
 ノートはいつの間にかシンシアに背を向けていて、丸くなったまま、返事すらしない。
「お腹空かないの?」
 ピクリと片耳が震えた。けれどもノートは黙ったままで、シンシアは具合でも悪いのかと心配になる。
 昼に食べさせた果物が合わなかったのだろうか。それとも、猫に与えてはいけないものだったのだろうか。
「……食べたくないだけだ」
 シンシアが本当に焦り出した時、呟くような少年の声が返ってきた。
「シンシア」
 具合が悪いのかと更に食い下がろうとしたシンシアを押さえるように、ダムゼルが口を挟んだ。
「放っておいておやり。今は食べられないんだよ」
 満腹だ、ということだろうか。
 ダムゼルの言い方は、なんとなく腑に落ちない。けれど、一瞬で変わったとわかる奇妙な雰囲気に気圧されて、シンシアはそれ以上何も言わないでおいた。
 まだ満たされないお腹に意識を向けて、せっかくの料理を味わうことにした。
 どれもこれも、食べたことがない。ちゃんと味付けされた出来立てのあたたかい“料理”。なっている果実をそのままかじるのではない。そのままの味ではない。
 美味しくて、手はなかなか止まらない。少し無理をしてでも、出された皿はすべて収め込んだ。
 最後に水を飲んで、はちきれそうなお腹に満足しながら息をつく。
「さて、もうお腹はいっぱいかい?」
 まー、綺麗に食べてくれたね、とダムゼルはからからと笑った。
「おいしかったです。すごく」
「……あんた、ようやく人間らしくなったよ」
 ダムゼルはとても優しい笑みと眼差しを向けた。
 え……? と、シンシアは目を丸くする。
「無意識かい? いいことだね」
「あの、なにが……」
「笑い方。あんた、今初めてちゃんと笑ったよ」
 ちゃんと、とはどういう意味だろう。シンシアは困ったように眉根を寄せた。
 ここに来てから何度か、シンシアは笑ったつもりだったのだ。
 目の前ではボレアスが食べ終わり、ぺろりと口元を舐めながら、顔をあげた。シンシアと目が合うと、灰色猫はダムゼルと同じように目を細めた。
「さて、片付けようかね」
 ダムゼルが手を叩き、目の前にあった皿が浮き上がった。ふわふわしつつも残った汁などを零さないように、次々と重なっては流し台に飛んでいく。
「あの、なにかお手伝い――」
「いいよ、今日のところは」
 苦しそうだしね、とダムゼルは言い、最後に飛んでいったグラスの後を追って流し台に向かった。
 確かに、身動きするだけで窮屈に感じる。シンシアは言い返せずに、中途半端に浮かせた腰を椅子に戻した。
「無理するとせっかく食べたモンを吐くことになるぞ」
 ぱったんぱったん、尻尾を左右に揺らしながらボレアスが言う。すぐに流し台の方から 「吐いたら承知しないよ」 とダムゼルの声が続いた。
 食べた物を吐いてしまうのはこちらもごめんなので、シンシアは仕方なくじっとすることにした。
 猫二匹は自分たちから何か話題を振ることはせず、シンシアもまた何を話せばよいやらわからず、それぞれが黙ったままの静かな部屋には、ダムゼルが洗う食器と水の音だけが続いた。
 しばらくするとダムゼルが廊下に出て行った。
 他にすることもなく耳を澄ましていると、彼女の足音は遠退いて上に移動し、また近づいて、頭のすぐ斜め上で小さくなった。足音が止まる。そしてその場所から、今度はガタガタと物音が聞こえ出す。
 なにか、重い物を動かす音。物と物がぶつかる音。何をしているのだろう。考えてもよくわからない。
 また足音が聞こえてダムゼルが戻ってきても、しばらく頭上の物音は続いた。
 いつの間にか音も途絶え、ダムゼルも洗い物を終えた頃。時計はもうすぐ九時を示していた。
 うとうとと意識を手放しかけていたシンシアは、ふいにダムゼルに呼ばれて意識を戻した。またテーブルに突っ伏しているうちに眠りかけていた。
 カラスに囲まれて一人生き始めた時から、常に日暮れと共に寝床へ帰り、そのまま食事もせず睡眠に入っていたシンシア。習慣となっている就眠時間は日没後すぐという早寝だ。それに比べれば今日はもうずいぶんな夜更かしである。
 ただでさえ疲れているので眠さは限界だ。鈍い動きでのろのろと顔を上げる。
「歯磨きして寝る用意おし」
 立ち上がるとダムゼルが背を押して歩を進めるのを手伝ってくれた。ふらふらしながら浴室へ行き、軽く歯磨きとトイレを済ませた後、シンシアはダムゼルに手を引かれて二階に上がった。
 よく覚えていない。同じような扉が二、三あった。それと窓。
 とにかく部屋のひとつに案内された。ダムゼルが扉を押し開けてそのまま張り付くように体を横にし、中が見えるように示して道を譲った。
 シンシアは覗き込むように一歩足を踏み入れた。
 ものの少ない質素な部屋だった。正面と右側に小さめの窓が二つあり、そのうちカーテンの開いている片方――向かって右側にある窓辺にはベッドがあった。
 他にも壁際には布を被った物がいくつか置いてある。使われていないらしく、薄く埃が積もっているのがわかった。部屋の天井の角にはクモの巣がある。
「ここをお使い。昔の弟子が使ってた部屋だ。ちょっと汚いけど、とりあえずベッドだけは綺麗にしたから、他の物にはまだ触るんじゃないよ」
 扉を開けたまま部屋には入らず、入り口でダムゼルが言う。
「はい。ありがとうございます」
 少々汚れていようがクモの巣があろうが、シンシアは気にしなかった。あの小屋よりずっと綺麗だし、隙間風もない。ベッドに柔らかそうな毛布もあれば十分だった。
「おやすみ」
 わずかな微笑みを浮かべ、ダムゼルが扉を閉めかけたその隙間から、ニャーと鳴き声が聞こえ、続いて黒い猫が身を滑り込ませる。
 驚いて扉を閉める手を止め、見下ろしたダムゼルを振り返って見上げ、猫はまた鳴いた。
「……」
 ダムゼルは黙ったまま肩をすくめ、静かに扉を閉じた。
 扉がカタリと音を立てて閉まるのを見届け、シンシアは足元に寄ってきた猫を抱きかかえてベッドへと向かった。

To be Continued...
2009/11/30