4.

 まだ太陽も昇らない早朝。白み始める気配を漂わせる空の下、シンシアはいつものようにボロのストールを被り、一匹の黒猫と一緒に“西の森”に入った。
 驚いたことに、黒猫の怪我は昨日の一日だけで完全と言っていいほどまで治っていた。目の前を進む足取りも軽い。
「猫ちゃん。怪我、治るの早いね」
「あんたのおかげだよ」
 猫は振り返って少し笑みを見せた。
「わたし、の……?」
 シンシアは立ち止まって、不思議そうに呟いた。
 なにか、とても小さな“なにか”が、胸の奥に落ちた。葉に留まっていた露がぴちょんと水面に落ちたように。かすかな波紋を生んで、変な気持ちになった。
 黒猫はシンシアは構わず先を行き、シンシアもほんの小さな疑問を消して、また歩き出した。
「お待ち!」
 切り株を少し過ぎたあたりで、鋭い一声がシンシアたちを足止めた。
 静けさを打ち破る羽ばたきと共に、数十羽のカラスたちがやってきた。行く手を塞ぎ、取り囲むように周囲の木々に止まるカラスたちは揃って猫を睨んだ。進行方向の正面の木に舞い降りたクレアが厳しい口調で問いただす。
「おまえ、シンシアをどこへ連れて行くつもり?」
 一昨日のこともあって身構えた黒猫は睨み返した。
「ここじゃない別の場所にだ」
「それはどこだい?」
「言ったってわからない」
 肌寒い空気はさらに張り詰め、一触即発の危機をはらんでいた。
 クレアの黒い瞳がじっと猫を見据える。彼女が一声上げれば、カラスたちは一気に猫を襲うだろう。今度はシンシアの声も届かないかもしれない。
「クレア、わたしが望んだことなの」
「シンシア――」
「本当よ。わたしが連れてって、って言ったの」
 クレアに何か言わせるより早くシンシアはたたみ掛けた。
「……シンシアを連れて行くなら、あたしたちもついて行くよ」
「好きにすればいい」
 興味なさそうに猫は素っ気なく返してまた先を行く。
 思ったよりも、あっさりと事は終決した。
 カラスたちが飛び上がる羽音と一緒に緊張も消え、シンシアはほっと胸を撫で下ろした。
 自分の大切な家族が、誰かを傷つけるのは嫌だ。その誰かが、自分を導いてくれると言った恩人なのなら、なおさらに。
 シンシアもまた猫の後を追い始めた。 カラスたちは木々の上を飛びながらついてくるようだ。
 それから何時間かして日が昇ってきた頃には、シンシアたちは“西の森”を抜けていた。歩き詰めだったので少し休憩を取ることになり、シンシアは近くの木陰に腰を下ろした。猫は方向を確かめるように辺りを歩き、きょろきょろと木々の間を見渡している。
 小さく鳴り出したお腹を押さえていると、数羽のカラスたちがくちばしに熟れた果実をくわえてやってきた。彼らは順番にシンシアの傍らに降り立つと、差し出したシンシアの手や膝に果実を置く。シンシアがお礼の言葉と一緒に背や頭をひと撫でしてやると、カラスたちはまた飛び立って近くの木に止まった。
 シンシアのために何か採ってくるときは、虫食いや汚れのない綺麗なものを選び、実を傷つけないように茎から千切ってくる彼らは本当に賢い。
 採ってきてくれたのは、薄オレンジ色のが二つと赤いのが一つ。赤いほうが大きいが、どちらも手の平に収まるサイズだ。
 シンシアは薄オレンジ色のを手に取った。柔らかい皮を手で剥き、中心にある種を避けながらそれを食べる。一つ目を食べ終えたところで猫がひょこひょことやってきた。
「ここから先は俺から離れないで」
「どうぞ、猫ちゃん」
 シンシアは同じ果物を取って皮を剥き、取り出した実を二つに割って種を除くと皮の上に乗せ、猫の前に置いた。
「聞いてる?」
 そう不機嫌そうに言いながらも、はくはくと頬張る猫にシンシアは頬を弛めた。老女のような顔が少しだけ、元の幼さを取り戻して見えた。
 シンシアは猫を見つめたまま、ことんと首をかしげる。
「で、なんだっけ?」
「だから、ちゃんと聞けよ」
 ピコピコと耳を動かして猫はもっと不機嫌な顔をした。
「ここから先は濃霧注意。俺から離れないこと」
 言われて見回してみると、確かに木々の間にはうっすらと白いもやがかかり始めていた。
 残った赤い果実の皮を剥きながら、シンシアはまだ果物を食べる猫を見た。
「猫ちゃん、これも食べる?」
「それ何?」
「わかんない。アカツブの実って呼んでるけど……」
 シンシアは固まりになっている半月型の実を一房、手の平に乗せて猫の前に差し出す。猫はくんくんと匂いを嗅ぎ、ぱくりと食べた。シンシアは身を屈めて黒い顔を覗き込む。
「どう? もっと食べる?」
「いらない。好きじゃない」
 ぺろりと口元と鼻先を舐めた猫に、そう、と返して、シンシアは残りのアカツブの実を全部食べた。手についた果物の細かい繊維を払って立ち上がると猫を見下ろす。
「もういいよ」
「じゃあ、さっき言ったとおり霧が酷いからはぐれないように、……そうだな……そのボロの片方を俺が持つから、あんたはもう片方を持ってて」
 猫はひらりとシンシアの肩に飛び乗ると、ボロをくわえて着地した。シンシアも言われたとおりにストールのもう片端を握り締める。そうして入った森の中は徐々に霧が立ち込めていき、森に入って少しと経たない間に辺りは異常なほどの濃霧に包まれた。
 じっとりとまとわりつく湿気が気持ち悪い。息をするのも苦しかった。
 目の前は真っ白で、自分の足すらぼやけて見える中、シンシアは何度か木の根や石に足を取られ転びそうになった。
「猫ちゃん、まだ?」
 早く視界のよい、乾いた空気のある場所に出たくて問いかけたが、声は返ってこない。
「ねえ、猫ちゃん?」
 不安になってまた呼ぶと、手に持つ布がくんっと引っ張られた。そういえば猫はボロをくわえていて話せないんだと気づき、少し恥ずかしくなった。
 カラスたちはこの霧の中どうしているのだろう、と耳を澄ましてみても羽ばたきは一切聞こえない。はぐれたのだろうか。シンシアも、もうどの方角に向かっているのかもわからなくなっていた。
 霧の中にいた時間はとても長く思えた。だが、しばらくそうしていると、ふいに変化は現れた。
「ん?」
 目を凝らして前方を見通す。ちろりと火のようなものがちらついた気がしたのだ。――と思ったら、唐突に霧が払拭される。
 眩しい光に目を瞑り、次に視界が開けたときに目の前に現れたのは、階段状に低くなっていく谷間と、その谷底にある大きな町だった。
 谷の上から見下ろす形でいるシンシアは、唖然とその景色を目にしていた。暗い森と狭い村しか知らないシンシアにとって、ずっと向こうまで広く続く谷や色鮮やかな家々、その上に広がる高い空はまさに別世界だった。だんだん下がる崖の階段には、見たこともない色の花が咲いている。
「わ、あ……」
 ショックが凄すぎて感動は言葉にならず、ただ息を呑むばかりだ。
 先導していた猫は口からシンシアのボロを離し、ぷるぷると身体を振るった。シンシアがボロを無造作に肩に巻きつけると、黒猫はくるりと首だけ振り返って、ひょんと尻尾を振った。
「ようこそ、俺たちの世界へ」
 黒猫の真っ黒な瞳に映る自分の瞳が、一瞬色を変えたように見えた。幻覚が見えるほどにまで感動しているらしい。
 まだ胸がどきどきしていて、頭は空っぽ。何も考えられない。まるで夢の中にいるみたいだ。
「こっち」
 そう言った猫は、なんと崖へ踏み出した。
「あぶな……!」
 とっさにシンシアは手を伸ばしかけたが、猫は下へ落ちることはなく空中で静止した。まるでそこに地面が続いているように。
「――あ、れ……?」
 不可思議な現象にシンシアはきょとんとする。
 そして、伸ばした手先に感じる、ぷよぷよとした感触に目を落とすと、今度は驚きに固まった。
 目の前の空気に、ちょうど水面に手を差し入れた時のように波紋が広がっていた。真っ直ぐ前に伸ばしたシンシアの手に対して、垂直にだ。シンシアが手を動かすたび、“それ”は手を中心にふよんふよんと柔らかく波打つ。
 シンシアの立つ崖の地面とその先の宙とを境にして、そこに見えない壁があった。
 いったい、何が起きているのやら。シンシアの今までの知識と経験で処理できる容量を遥かに超えていた。そのシンシアの回路がオーバーヒートする前に、猫が呼ぶ。
「大丈夫。ほら、こっち」
 猫は、壁の向こう側でこちらを向いて座って、誘うように尻尾を振る。
 けれど。
 シンシアは尻尾に合わせて首を横に振る。
 浅くなりつつある呼吸をなんとか抑えながら、やっとのことでか細い声を出せた。
「む、無理……だよ」
「あんたなら平気だって。落ちやしないよ」
 何を根拠に言っているのかと問いたかったが、今のシンシアにそんな心の余裕なんてない。驚きというか、自然の原理を真っ向から覆す不思議すぎる光景に、体が完璧に竦んでしまっていた。腰は完全に引けていて、それでもこのまま動かすと引っこ抜けてしまうんじゃないかという恐怖から、伸ばした手だけは抜けないでいる。
「ほらほら、怯えないで。両手を出すんだ」
 猫は後ろ足の支えだけで器用に座り、両手を突き出す仕草をして見せた。
 シンシアは、震えるもう片手を胸の前まで持ってきて、震えを抑え込むように一度握り締め、やっぱり震えるまま壁を押す。そうっと、そうっと……。手の平に風のような、空気の壁のようなものが触れた。押すと、抵抗もなく、ふよよん……と揺れて飲み込まれた。
 そのままゆっくりとスローモーションで両手を伸ばし……肘まで壁の向こうに出た。
「そうそう」
 猫は前足を下ろして、満足げにうんうんと頷く。
「怖いなら目を瞑ってもいいから。足出して」
 落ちるんじゃないかという恐怖をなんとかするため、シンシアは目をぎゅっと瞑った。
 ぎゅっと瞑って、瞑って……。やっぱり足が動かない。
「前進!」 猫が叫ぶ。
 そろりと足を持ち上げ、一歩、踏み出した!
 崖に残した足に体重をおいたまま、爪先でそこに足場があることを確認し、もう片方の足も、えい! と勢いに任せて。
 完全に一歩分、崖から前に出た。そこに落ちる感覚はなく、靴から伝わってくるのは地面と変わらない硬い感触だった。けれど目を開けると、シンシアは確かに宙に浮いている。
「よし。さ、行こう」
 猫は立ち上がってくるりと背を向け、軽やかに先に進む。
 シンシアが安心してもう一歩踏み出すと、道は続いていなかった。
「きゃアッ!!」
 裏返った悲鳴が喉から飛び出す。
 本当は階段一段分が低くなっただけだったのだが、予想していなかったおかげでがくんとなって、なおかつ場所が場所なだけに落ちたと思い込んだシンシアのお腹の中がきゅうっと縮まった。お腹の中身が全部、ストンと体の底に落ちてしまったような気がする。一気に大きくなった心音はバクバクと早鐘を打った。
「あ、わ、うわ……」
「何してるの」
 腰を抜かしそうになったシンシアを猫は呆れたように振り返った。
「う、なんでも……ない」
 深呼吸してひとまず落ち着く。今度こそ大丈夫だ。
「階段になってるんだよ」
 黒猫が念を押して、また一段、先へ進んだ。
 猫の後を追えばいいだけとはいえ、空中ではうまく距離感が掴めないのだ。おっかなびっくり中腰のシンシアは、まるでおばあちゃんが階段を降りるようだった。
 道は少しくねくねしながら、一段一段と足場が下がっていく。そうして、だんだんと空気の階段を降りて、谷の中腹あたりに着地すると、猫は近くにある家に向かった。
 やっとまともな大地に着いたシンシアは、自分が降りてきた距離を見上げ、次にまだ下にある谷底を見た。
 上側の崖は思ったより段の幅が狭く、下から見上げると繋がったひとつの断崖絶壁に見えた。下に行くほど、階段の幅は大きくなっていくようだ。町は近くなったが、まだ谷底までは四、五段ほどある。その一段分の高さがかなりあるめ、ここは町の家々の屋根よりずいぶん高い場所だ。まだ町の全体を見下ろせた。
 シンシアは町から視線を外し、すぐ近く――足下の草花に目をやりながら猫の後を追った。
 猫が向かったその家は、谷底の町を見下ろすように孤立して建っていた。たまにレンガが交じる、くすんだ緑色の壁は古そうだが、汚いという印象はない。くもって中が見えないガラス窓は歪んだ不揃いな四角形でとても変わっている。
 赤っぽいような茶色の屋根から二本突き出した灰色の煙突のうち片方からは、もくもくと白い煙が吹き出ていた。
「こっちだよ」
 家の玄関で猫がこちらを振り向く。
 あちこちを眺めていたシンシアが隣まで追いつくと、猫は顔を上げてドアを見上げた。
「そこのベルを鳴らして」
「これ?」
 シンシアは、扉の横にぶら下がった丸い輪っか付きの鎖を引っ張った。鎖が伸び、ゆっくり戻っていくのにつれて、ジリリリリ……とベルが響いた。
 そしてドアからは、……誰も出てこなかった。

To be Continued...
2009/06/29