3.

 また朝がきた。相変わらず、あの森には誰も近寄らない。
 シンシアは太陽よりもずっと早く、村人も数人しか起きていない早朝に目が覚めた。寝たときとほとんど変わらない体勢から体を起こし、目の前に垂れ下がった髪の束を後ろに掻き上げる。
 横を見ると、黒猫はまだ眠っていた。
 シンシアはベッドから降りて、泥だらけの靴を履き、黒猫にかけていたボロをまとった。
「ごめんね、猫ちゃん」
 囁いて、そっと小さな体を抱き上げる。猫の姿が見えないように優しくボロで包んで、シンシアは家を出た。
 外は薄く霧が立ち込めていた。空を見上げると、太陽が出るにはまだ時間がある。
 村を囲む森に遮られて、この村に風はあまり吹かない。けれど、じわりとまとわりつく肌寒さに、シンシアは小さく身震いした。吐く息も少し白く凍った。
 シンシアが小屋の屋根を振り返ると、扉を開けた音で起きたらしい見張りのカラスたちがじっと見返した。
「いってらっしゃい」
 一羽がくちばしを小さく鳴らした。彼は今日の留守番だ。
 シンシアは声で答える代わりに、ボロの下で口元だけ薄く笑った。屋根にいたもう一羽が飛び立って、シンシアの頭上をゆっくり連れ添った。
 シンシアは、白く視界をふさがれた中を、村の出口まで静かに歩く。音を立てて村人を起こさないように、それから猫を起こさないように。猫のようにそうっと歩くのはもう習慣化していて、できるだけ気配を隠すのも得意だった。
 まだ薄暗い森に踏み込むと、朝露で湿った冷たい空気がまとわりついた。肌で感じる温度がぐっと冷える。シンシアはボロをしっかり巻きつけると、猫が寒くないように体に引き寄せた。
 名前のわからない苔むした木々の緑と、栄養の豊富な土の香り。研ぎ澄まされた自然の空気。遠くで鳥が鳴いている。葉っぱから滴る水の音。肌に感じる気配のすべて……。
 村の中よりも、シンシアは森のほうが馴染んでいた。人々の間にいた時間とカラスたちと一緒にいる時間は同じくらい。でも、カラスたちとの時間の方がずっと濃い。
 カラスが家族だった。そして家族が棲む、まるで家のような森が好きだった。
 視界がひらけると、大樹の切り株が現れた。切り株にそっと黒猫を降ろしたところで、“家族”たちがやってきた。
「おはよう、シンシア」
 真っ先に降り立ったのはクレアだった。“家族”たちの中でも年長のリーダー格だ。シンシアとも一番長く付き合っていて、シンシアにとっても母のように気を掛けて面倒を見てくれている。
 そのクレアに続いて、ぞくぞくと黒い鳥は集まってきた。
「おはよう」 と、シンシアはそれぞれに微笑みかける。
 口々に朝の挨拶をしては舞い降りてくるカラスたちがみんな集まると、ようやくシンシアはボロを頭から外した。
「今日は、いつもより早いね」
 近くに舞い降りた若いカラスが首を傾げた。
「早く目が覚めたの」
 言ったとたんに、そのカラスは心配そうな目をした。
「眠れなかったの? 具合でも悪い?」
「違うよ。少し寒くて目が覚めただけ」
「ならいいけど。シンシアが病気になったら悲しいよ」
 シンシアはカラスの背を撫でた。彼はつやつやとした綺麗な翼をしている。
 真っ黒のように見えるけれど、カラスの羽は濃い紫色だ。シンシアはその羽の微妙な色の違いと、それぞれの顔つき・体つきから、ほとんどのカラスを見分けられた。
 カラスたちが周りに集まったおかげか、剥き出しの足下は徐々に暖かくなっていた。
「シンシア、こいつも連れてきたの?」
 背後で嫌そうな声がした。切り株に飛び乗った数羽が、眠る黒猫を覗きこんでいる。
「置いてくるのは可哀そうだから」
 もし村人が見つけでもしたら、この黒猫も何をされるかわからない。怪我をしているのに、きっと手加減などしないだろう。
 シンシアは身を屈めて黒猫を見つめた。
「まだ起きそうにないね」
 シンシアはボロを取ると折りたたんで黒猫に被せた。
 カラスたちが不思議そうにシンシアを見上げてきた。
「シンシア?」
「探し物、だれか手伝ってくれる?」
「ボク手伝う!」
 さっきのカラスが真っ先に名乗り出た。
「何を探すの?」
「薬草と、栄養のある食べ物」
 猫のためとなると、傷つけた本人たちは渋ったが、それから十数羽が名乗りを上げてくれた。居残り組には黒猫を守ってもらうことになった。
 カラスたちは方々に散らばり、シンシアは二羽を伴って森の奥へ入った。
「シンシア、ボクらは何を探すの?」
「薬草。一番見つけにくいやつ」
 シンシアは近くの木の根元の茂みを掻き分けた。冷たく濡れた草の奥に、今年新たに芽吹いた若木がひっそりと隠れていた。その根元には、くるりと特徴的な形をしたつるが巻きついている。
 そっと、若木の一番先の葉を摘み取って、それをカラスに見せた。
「これよ。あと五枚」
「そこにあるじゃない」
 片方のカラスがくちばしをしゃくった。
「だめ。この木は、これから大きくなるから、摘み取ったらだめなの。それに、薬として一番効果があるのは、一番目の葉っぱだけなの」
 昔、シンシアが転んで怪我をしたとき、年寄りのカラスがそう教えてくれたのだ。そのカラスは何年も前にある村のはずれで出会ったのだけれど、もう長旅をできる体力はなく、その村を出たときに別れてしまった。
 一緒に来ることはできなかったが、彼から得た多くの知識は、今までシンシアを助けてきてくれた。その彼に比べれば、ずっと子供の二羽のカラスは、 「すごいね」、「物知りだね」 と感嘆している。
 それから森のあちこちを歩き回り、ようやく五枚の葉を見つけたとき、シンシアのお腹も小さく鳴り出していた。
 シンシアたちが切り株に戻ると、もう他のカラスたちは戻ってきていた。
 切り株の上には、数種類の薬草とこの時期の果物が集められていた。黒と緑ばかりのその場に、少し彩りがあるだけで賑やかに見えた。
「ありがとう、みんな」
 シンシアは切り株に座ると、その足下に置いてあった石を持ち上げた。平らな石とすりこぎのような棒状の石。くるみなどの殻を割ったり、薬草をすり潰したりするのに使っているものだ。
「シンシア。それはいいから、先にお食べ」
 クレアがそう言うも、シンシアは小さな果物を口に放っただけで、そのまま薬草を千切り始めた。
 ある薬草は揉み潰し、別のは粉になるまですり潰し、また別のはその汁だけを搾り出し……それらを混ぜ合わせ、シンシアは軟膏のようなものを作り上げた。もちろんそれは緑色で、草の欠片や繊維は残るものの、ねっとりと粘り気のある“薬”を手に取り、シンシアはそれを猫の傷に塗った。
 少しずつ、少しずつ、配分を考えながら体中の傷に塗りこめる。
 黒猫の毛が、緑の斑模様を作り上げたとき、石の上にはまだ薬が残っていた。
 猫が身じろぎをして、小さくうめく。シンシアはその顔を覗き込んだ。
「起こしちゃったかな?」
 うっすらと、淡いブルーの瞳が覗いた。
「おはよう」
「あんた……」 黒猫は、眩しそうに何度か瞬きをした。
「ったく、イイ身分だね」 クレアがカチカチとくちばしを鳴らした。「シンシアは薬草を探し回って、薬まで作って塗ってやったってのに」
 黒猫は体を曲げて、自分の背中を見た。スンスンと鼻を鳴らす。そして驚いたように、シンシアを見上げた。
「あんたが作ったのか?」
「そうよ。――余計だった?」
「いや……ありがとう」
 黒猫は自分の尻尾を見つめながら、ぼそりと言った。
 シンシアは、よかった、と微笑む。
「あーあ。文句を言うなら、また小突いてやろうと思ったのに」
 近くにいたオスのカラスがそう漏らした。昨日、黒猫を囲んでいたうちの一羽だ。
「意地悪は言わないで。わたしは気にしないから。……猫ちゃん、なに食べる?」
 カラスの首を撫でて落ち着かせ、シンシアは猫に訊ねた。
 黒猫は周りを見回して、「それ」 と、一番近くにあった赤い果物を尻尾で差した。

*  *  *

 お昼を過ぎた頃に、シンシアは余っていた薬をまた猫に塗り、朝に作った分を使い切った。
 怪我のせいもあってか黒猫はずっと大人しく丸まっていて、シンシアは時々川に水を汲みに行ったりする以外は、いつものようにカラスたちとの会話に一日を潰した。
 カラスたちは、シンシアが退屈しないように、いろんな話を聞かせてくれる。見てきた町やそこに住む人々の話、どこかの伝説やおとぎ話、自分たちの昔の話から昨日巣で起きた出来事などを、代わる代わるに話してくれるのだ。まるで、祖父母や両親が、自分の子供にするように。
 だから毎日、シンシアは夕暮れまでの時間が長いと感じることはなかった。今日も、頭の上にぽかりと開いた空は、いつの間にか赤く色づき始めていた。
「じゃあ、もう帰るね」
 シンシアは立ち上がってボロを被ると、黒猫を抱いた。それから朝に使わなかった薬草も一緒に、ボロにくるんだ。
「バイバイ」
 カラスたちは足下から飛び退いて道をあけ、シンシアの後ろ姿を見送った。何羽かはシンシアの後をついて飛び――今日の見張り番だ――シンシアはカラスに囲まれながら村への道を歩んだ。
 村に戻ると、いつもと同じように空気が冷えついた。シンシアは先ほどまでの笑みなど微塵も残さず、無表情で早足に家に向かって進む。
 ボロに包んで見えないようにしてある猫は、勝手に隙間を作り、その影から様子を窺っているようだ。
 数人の幼い子供たちが、囃し立てながら、シンシアの行く手を横切って走っていった。
「シンシア、シンシア、化け物シンシア」
 シンシアはうつむいたまま視線を合わせない。
「化け物姫のお通りだ! そこ退け、そこ退け、道あけろ!」
 もし、合わせたらどうなるのか――ろくなことにはならないのだ。
「さもなきゃ、お供のカラスが舞い降りて、おまえの目ン玉くり抜くぞ!」
 そんなからかいの歌を大声で合唱する子供たちを脇目に、シンシアはさっさと家に入った。扉の向こうで、まだ声はかすかに聞こえている。
 ベッドの上に降ろされた猫は、明かりのない暗い小屋中を見渡してから、不思議そうにシンシアを見る。
「なんだ? さっきの」
「さぁ……。わたしに聞かないで」
 シンシアは呟いて、小屋の隅から石を二つ持ってきた。切り株のところに置いてあった石と同じようなものだ。
 ベッドの近くに寄せた椅子に座ったシンシアは、膝の上に平らな石を乗せる。
「……これは、独り言だから気にしないでね」
 持って帰ってきた薬草の束から一種類を取り、細かく千切って平らな石に載せながら、シンシアは小さく笑った。
「わたし、昔からカラスと話せたの。いつからかも覚えてなくらい、小さな頃から。話せることが普通だと思ってたから、お母さんとか友達とか……周りの人に、そのことを――話せるんだよってことを言うことに、何の疑問も持たなかった」
 細かくなって少し汁の出た薬草を、シンシアはすりこぎ状の石を使って押し潰していく。
「でも、言っちゃいけなかったんだよ、本当は。みんなから変な子だって言われて、気味悪がられて……お母さんまで、わたしに怯えて……。それでね、村にあった教会に預けられたの。わたしが五歳の時に」
 押し潰してさらに溢れてきた汁と一緒に混ぜ、端に寄せると、今度は別の薬草を千切ってすり潰す。
「教会はつらかった。毎日がお清めだとか、お払いだとかで、遊びにも出してくれない」
 シンシアは朝と同じ手順で、薬の材料を準備していく。
「すごく、つらくてね……嫌になって、逃げ出したんだ。それが教会に預けられて半年後の話」
 シンシアは、準備のできた材料を順番に混ぜ合わせた。
「あちこちの村を転々としたの。そうして、この村まで来たんだけど、村を移るうちに一緒にカラスたちもついてきちゃって。……ほら、畑とか荒らすでしょ? あの数だと酷いことになるから、村の人に迷惑かけないように、毎日森で集めてたの。わたしのせいで、あれだけ増えたのを連れてきちゃったから」
 出来上がった薬を集めて手の平に乗せ、石を床に置いてベッドに近づく。
 猫の傍に腰掛けたシンシアは、特に目立つ背中の怪我に優しく薬を塗りこめた。沁みるのを痛がって暴れるかと思ったが、猫はじっと我慢していた。
「わがまま……言ってもだめだと思ってね、甘えないようにしてた。食べ物だって、カラスたちが集めてきてくれる果物と木の実だけを食べてた」
 シンシアは他の傷にも薬を塗りながら、また笑った。
「でも、やっぱり……嫌われちゃうみたい。カラスと話せることが知られて。そんなに変なのかな? 上手く、いかないの……」
 誰かと心が通うのは『良いこと』だと思っていた。だから、カラスと話せることも『良いこと』だと思った。
 村の子供の中には、犬や猫や家畜に話かける子もいた。シンシアが話しかけても、彼らから言葉は返ってこない。カラスだけだ。だから、人それぞれで話せる動物が違うのだ、と幼心に考えた。
 あの子たちは犬や猫と話せて、自分はカラスなのだ、と。
 シンシアは知らなかった。人は動物とは話せない、話せるわけがないことを。カラスは、この地方では、悪魔の使いとされる『悪いもの』であることを。
 物心のつく前から、カラスと話せることが普通であったシンシアは、他人の言う「普通」を知らなかった。知ったときには、もう遅かったのだ。
「じゃあ、ずっとこんな生活をしてるのか?」
 眉根を寄せて笑い話をするように苦笑するシンシアを、猫は笑わず静かに見つめた。
「次に森の葉っぱが枯れたら、六年目」
 シンシアは余った薬と石を片付け、ベッドに上がると丸まるように突っ伏した。頭の上にいた猫は、シンシアの顔の前によたよたと移動する。
「ここから出ればいいのに。あんたはここに合わないんだ、きっと。我慢するのもいいけど、新しい世界に踏み出すことも、時には肝心だ」
「……もう、何度も踏み出した。でも、世界は、いつも同じだよ」
 猫がシンシアの顔を覗き込んだ。まん丸な青色にシンシアが映る。
 なんだか、優しく抱擁されているような心地になった。もっとも、そんなことをされた記憶は持っていない。でも、たぶん――いや、きっとだ。こんな気持ちなんだろう、と根拠もなく確信した。
「なら、俺が世界を開いてやる。ここから助けてあげよう」
 シンシアの真っ暗な瞳が大きく見開かれた。
「猫ちゃん、それ、本当?」
「本当だ。でも、遠くに行かないといけない。それに、簡単な道じゃない」
「帰ってこられないの?」
「あんたが上手くやりさえすれば、戻ってこられる」
 猫はシンシアの前で丸くなって、ぱたぱたと尻尾を振った。その顔は、意味あり気に笑っているように見える。
 信じられなくも、シンシアは頷いた。
「わかった。連れてって」

To be Continued...
2009/06/14