「ねえ、知ってる? あの子ってさぁ……」
「そうそう、気持ち悪いよね〜」
「あたし昨日見たわよ」
「やだ! 気づかれてない?」
「大丈夫。……それで、あの子ね……」
年頃の少女たちは好奇心旺盛で、噂好きだ。この村の少女たちも例外ではなかった。例えそれが人を傷つけるものでも、逆にそういうものだからこそ、心の中の悪い部分が「面白い」と言って、悪気の欠片もなく笑っていられるのだ。自分がその対象にさえならなければ、少女たちは他人の悪口でも構いはしなかった。
そんな噂話で盛り上がる少女たちの中で、一人だけ話題についていけない少女がいた。
「ねえ、一体誰のこと?」
そう尋ねた少女に、話をピタリとやめて、他の少女たちは顔を見合わせた。一人が信じられないというふうに聞き返す。
「知らないの?」
「だから、誰のこと?」
わからないと焦れた少女に、また顔を見合わせた少女たち。それから三人一緒に、聞こえるか聞こえないかの小さな掠れ声で囁いた。
「シンシアよ」
1.
赤い夕焼けだった。焼かれているように染まる森は、人を寄せつけず、不気味にざわめいていた。
“西の森”と、そう呼ばれる森には村の狩人でさえ近づかない。――「近づいてはいけない」、それが村での暗黙の了解だった。その森の中にはある人物がいたからだ。
魔物の子。
その人物はそう呼ばれていた。
木々に囲まれ、ぽっかりと抜けたようなその場所には年老いた巨木の切り株がある。いつも、その周りの部分だけ墨で塗りつぶしたかのように黒くなるほど、何羽ものカラスがその場に集っていた。
集まったカラスたちは切り株に腰掛けた人物の前で、普段のギャアギャア騒ぐ声ではなく静かに、まるで話し合いをしているように鳴きあっているのだ。
その真っ黒に囲まれて、ぽつりと切り株に座る小柄な人物は、顔を隠すように色褪せて薄汚れたボロの大きなストールを被っているため、腰掛けた後ろ姿だけでは男か女か、老人か若者かも判別しにくかった。ただ、ボロボロに擦り切れたスカートを穿いており、女だということはわかる。
ストールもスカートも、その裾から見える痩せこけた足が履く粗末な靴も、着ているものはとにかく汚れていて、元の色がわからないくらい茶色くなっている。
なんにせよ、大量のカラスに囲まれているその光景は、はたから見ればおそろしく不気味だった。
アァッ!
鳴きあっていた黒い固まりのうち、一羽が翼をばたつかせて鳴いた。見ようによっては憤慨しているようだ。他のカラスたちも怒ったように声をあげはじめた。
ボロの人物がさらに俯いて、
「もういい。やめて」
高く鈴を転がすような声が呟いた。
騒いでいたカラスたちはすぐに鳴きやみ、下から恐る恐るボロの中を覗き込んだ。
ボロの下は、十歳くらいの少女だった。色素の薄い金髪は腰まで届き、絡まって汚れている。髪と同じように汚れ、若々しさも柔らかさも感じさせないこけた頬は老女のようだった。何日も寝ていないように落ちくぼんだ目は虚ろで、暗い闇のような瞳には楽しさだとか希望だとか、おおよそ明るい光はなかった。ボロと長い前髪のせいで顔には影が落ち、表情をさらに暗くしている。
彼女が魔物の子、シンシアだった。
「ごめんよ」 カラスが鳴いた。
シンシアは首を横に振る。「……もう、次は言わないで」
カチカチとくちばしを鳴らして、カラスたちはシンシアを気遣わしげに見上げた。
と、次の瞬間、真っ黒の固まりが一斉にざわついた。
そして、鋭い鳴き声が響いたかと思うと、カラスたちは黒い羽根を飛び散らせ、次々と飛び上がった。羽ばたく翼と風で舞い上がる砂とで、シンシアはとっさに目を瞑って顔を庇った。大音声が耳朶を打つ。
「どうしたの!?」
事態を把握できていないシンシアは、飛び上がる集団につられて立ち上がった。
カラスたちは揃って一直線に森の奥へ飛んでいく。
「ねえ!」
「シンシア、今日はもうお帰りなさい!」
年長のカラスが飛び去り際にそう言い残したが、シンシアはカラスたちが向かった方へ後を追った。けれど空を飛ぶのと生い茂る木々を掻き分けて走るのとは速さが違う。体力のないシンシアの息が切れるのは早く、鬱蒼とする緑の葉でカラスたちを見失ってしまった。
「どこに……」
シンシアは肩で息をして、日が落ちて暗くなりつつある木々の間を見渡した。さらに奥から聞きなれた鳴き声が聞こえる。
鳴き声が近くなるほどに視界は明るくなり、唐突に森が開けた。
そんなに広くはない場所に、大群のカラスが集まっていた。そこらの木という木の枝に森中のカラスがひしめき合い、葉を黒くした木々が鋭く鳴き叫んでいるように見えた。
彼らが見つめるその先で、十数羽の比較的体の大きなカラスたちが揉めているようだった。何かを攻撃しあっているようだが、真っ黒な固まりは何がなんだか見分けがつかない。
ただの喧嘩かと思ったシンシアだったが、先ほどのカラスたちの様子は明らかにおかしい。
「何してるの?」
必死に目を凝らしていると、真っ黒の中に、ふと青くて丸い光が現れて消えるのを見た。近くに寄るともっとはっきりわかった。
たぶん、動物の目だ。そう確信したシンシアは迷わなかった。
「シンシア! ダメだ!」
「近づいちゃダメだよ、シンシア……っ!」
取り巻きの声を無視して、慌てて黒い固まりに割って入る。
「こら! やめなさい!」
「シンシア!?」
「なんでここに!」
団子状態だったカラスたちが、シンシアの登場でバタバタと飛び退いた。
飛び散った黒い羽毛の中にぐったりとうずくまる黒猫を見つけ、シンシアはそばにしゃがみ込んだ。足と同じように痩せこけて、骨と皮ばかりの手を伸ばそうとしたが、
「フシャ――ッ!」
猫は弱々しくも毛を逆立てて威嚇の声を上げる。シンシアは息を飲んで動きを止めた。
爪と牙を剥いてシンシアを睨みつける猫はこっぴどくやられていた。あちこちを小突かれ引っ掻かれて、目立つ怪我もあれば小さなものも数多かった。
これではもう人間などなおさら信用しない。シンシアは伸ばしかけた手を引っ込めて、黒く染まった周りの木々を見回した。
「どうしてこんなことをしたの」
「そいつはヨソ者だよ」
「危ないんだよ」
「だから離れなさい、シンシア」
カラスたちは口々にそう騒ぎ立てた。シンシアがいなければ、またすぐにでも猫を襲い始めるだろう。みんな、落ち着きがなかった。
「そんなこと言っちゃだめ」
「でも!」
「普通の猫じゃないんだよ!」
「普通じゃないんだ!」
「危ないよ!」
「なら! わたしだって、普通の人間じゃないよ!」
カラスたちに負けないくらいシンシアは声を張り上げた。
一人の人間として認めてもらえなかったシンシアには、今の言葉は一番の地雷だ。異端とされることがどんなに辛いか身をもって痛感している。
事情を知っているカラスたちは、はっとしてくちばしを噤んだ。その場がしんとなった。
「――シンシア!」
静かな中、鋭く声が飛んだ。その瞬間、カラスたちが一斉に身動きした勢いで、森がざわりと揺れたようだった。
全員が気を逸らしたその隙を狙って、猫が突然シンシアに攻撃を仕掛けたのだ。
シンシアが避けるより早く、誰よりも素早く反応した一羽のオスが大きく翼を広げ、両者の間に躍り出た。盾になってシンシアを守ったカラスは、限界までくちばしを開けて荒々しく鳴いた。
「こいつ! シンシアに向かって!!」
「だめ!」 とっさにシンシアの口から大声が出た。「だめよ」
くちばしで猫の目を突こうとしたカラスを、今度はシンシアが制する。カラスは大人しく従ったが、猫を襲っていたカラスたちと同じように、まだ警戒して猫を取り囲む輪に戻った。
「おいで、猫ちゃん。悪いことはしないから。手当てしてあげる」
シンシアは優しく安心させるように声をかけて、もう一度そっと手を伸ばす。
猫は諦めたのか、それともさっきの攻撃で力を使い果たしたのか、今度は大人しくシンシアに抱き上げられた。
「シンシア、いけないよ」
すぐそばの木に止まっていたメスのカラスが咎める。クレアという名がある彼女はカラスたちの中でも年長で賢く、リーダーのような存在だ。クレアにならって他のカラスたちも鳴きだした。
「さっきはありがとう」
耳が痛いくらい、ギャアギャアとやかましい鳴き声に負けない声で、シンシアはさっき庇ってくれたカラスの頭を撫でる。
カラスは黒い瞳でシンシアを見上げて、不服そうにくちばしを鳴らした。
「そいつはホントに危ないよ」
「うん」
彼らがなんと言おうと、シンシアは猫を連れて帰るつもりだ。そのカラスだけでなく、他の周りにも聞こえる大声でシンシアは言った。
「わたしは大丈夫だから」
そうして顔を上げると、クレアが真剣な目でシンシアを見据えていた。
「……忠告したからね」
言ったところで聞かないと知っているクレアは、それだけ言い残して身を返し、飛び立った。カラスたちはシンシアを気にかけながらも、クレアの後に続いて次々と自らの巣へ帰っていく。
その背中を目の端で見送り、シンシアは抱き上げた猫をボロの両端で包んだ。
うっすらと開いた猫の目がシンシアを捉えた。黒い毛並みに良く映える、淡く綺麗なブルーだった。
「なあ」
声が聞こえた。
誰が話しかけてきたのかわからず、シンシアは辺りの木々を見渡した。
「こっち、俺だよ」
ごく近くで聞こえる声に、腕の中を見下ろす。
―――まさか。
「そうだ、俺だ」
赤い小さな口が、聞こえてくる言葉に合わせてパクパクと開閉する。
まさかのまさかだった。猫が話しかけてきた!
「あいつらは正しいぞ」
「猫が、喋った……」
シンシアは信じられない、と目を丸めて呟いた。
猫が何を言っているのかは、右耳から左耳へ綺麗に通り過ぎていっている。シンシアがカラス以外の動物の言葉がわかったのは初めてだった。
びっくりしすぎて意識を奪われ、猫を抱える腕の力が緩みそうになったシンシアは慌てて猫をしっかり抱き直した。
「わたし、猫と話すなんて初めて」
「そうだ。俺は猫じゃない」 少しむっとした少年の声が返ってくる。
猫が猫じゃないと言うなんて。
可笑しくなったシンシアはくすりと笑い声を漏らした。猫は表情豊かに、怪訝な顔をしてみせる。それにもまた笑った。
「わたしには猫に見えるわ」
「見えるだけだ。だから放っとけばいい」
声はしっかりしているが、猫は目を開けているのもつらそうだ。
「そう? でも怪我をしているのは放っておけないの」
シンシアが歩き出すと、猫はそれ以上何も言わず、静かに目を閉じて意識を失った。