むかーしむかし、ある冬の日のことだ。
 高貴な女がひとり、窓辺で針仕事をしていた。その最中、女は誤って針で指を突いてしまい、積もっていた真っ白な雪に朱が三滴落ちた。赤い染みは雪に染みて広がる。
 女は血の滴った雪を見て思う。肌は雪のように白く、唇はバラのように赤く、髪は黒檀のように黒い子供が欲しい、と。
 それからすぐに、女が願ったとおりの子供が生まれた。その子は、母親に似て容姿に優れ、白雪姫と呼ばれた。

1.だな努力はしない主義

 ここで忘れてはいけないことがある。
 そもそも、だ。なぜ窓辺で針仕事をしていた女は、わざわざ窓の外の雪に血を落としたのか。白いハンカチで拭ったならまだしも、針で突いただけの小さな傷から三滴も落とすには、絞り出したにしても大変なはず。なのに女は血を落とした。
 この時の女の考えるところは、おそらくこうだ。

――穢れない純白の雪に、真っ赤な血を落とすとどうだろうか、さぞやそのコントラストは美しかろう……。

 非常に残念なことに、この美しく高貴な女は美に囚われていた。
 つまり、明け透けな言い方をするなら、ちょっと頭がキちゃっているわけだ。現在進行形で。
 この頃では、魔法の鏡なんていう胡散臭さ甚だしい姿見に夢中である。
 女は誰もが認める美女だからまだ良かったが、そうでなければ救いようがない。自分の容姿に酔いしれるなんて十分引いてしまうが……。
 そんな彼女が、紛れもなくこの国のお后その人で、なおかつ私の実の母親だなんて、なんの冗談だろう。笑えやしない。

「はぁ……」
「白雪姫、溜め息をつくと幸せが逃げますよ」

 侍女がそんなことを言うが、出るものは仕方ない。自分の母が頭に問題を抱えていたらそりゃあ溜め息のひとつやふたつはつきたくなる。
 うららかな午後には似つかわしくない大きな溜め息だとは自覚している。
 空に浮かぶ綿毛のような雲から視線を降ろすと、侍女が心配そうに小首を傾げていた。

「何か悩み事でも? わたくしでよろしければお聞きしますよ」
「いいえ、べつに……たいしたことじゃないけれど……」
「そうですか? でしたら、気分転換にお茶でもいかがでしょう?」

 今日はコックが新作のケーキを焼きまして、と侍女は庭のテーブルにクロスを広げた。
 特にすることもなく庭に居座っていただけなので、断る理由もなく椅子に着く。ぼんやりと庭のバラを眺めている間に、彼女はすぐにティーセットを運んできた。後ろについて来た別の侍女がテーブルの中央に銀盆を置く。
 ぱかりと覆いを開いた下には、綺麗なホールケーキ。生クリームで化粧をされた白いケーキの上には、つやつやとしたコーティングをされた果物が綺麗に並んでいる。

「苺のかわりに、白雪姫のお好きなリンゴをたくさん使用しているそうです」

 フォークを渡され、切り分けられたケーキが前に置かれる。
 断面には薄いスポンジの間に赤と白のストライプ。私がスポンジが嫌いと言ったのを覚えていたらしく、割合としてはクリームの方が多い。

「わー、おいしそー!」
「よろしければ是非ご感想をコックに伝えてやってくださいませ」

 一口食べて、頬が緩んだ。
 柔らかいスポンジ、甘いクリーム、甘くどさを中和する程良い酸味のソース。底に敷かれたクッキーは触感のアクセント。クリームにはほのかにチーズの風味もする。そして飴をまとった瑞々しい果物。

 あーあ、もうお菓子を食べている時くらいだ。余計なことを考えずにすむのは。
 おいしい紅茶に、おいしいケーキ……唯一の至福の時間だ。

「白雪姫! またホールケーキをまるまるひとつ平らげたのですか!?」

 あー、食べた食べた。
 満腹感と満足感に浸りながら紅茶を口に含んでいると、執事が眦を吊り上げてずんずんとやってきていた。せっかく整えた髪が風圧で少し乱れている。けれども何が何でも走らないあたり、よくできた執事だ。
 執事は私の隣までやってくると、すっかり空になった皿と銀盆を見てがっくりと項垂れた。

「残念、一足遅かったね」
「あああ、もう! 今日こそはと思いましたのに! 目を離した隙にこの有り様!」

 執事は手袋をした手でこめかみを押さえて悔しがる。

「あれほど、ホールケーキをまるごと召し上がるのはお止め下さいと……!」
「もう食べてしまったものは仕方がない。だいたいハンスは甘いものは嫌いじゃなかったっけ? 胃がもたれるんでしょ?」
「わたくしも食べたかったから怒っているとか、そんなわけないでしょう」
「食べたいなら素直に言えばいいのに」
「違います! お一人でホールケーキを食べるなと申しているのです!」
「だから、ハンスも食べたいんじゃ……」
「今しがたご自分で『ハンスは甘いものが嫌い』と仰いましたよね?」

 ぎゅうう、とハンスの眉間に皺が寄っていく。同時に口角がすっかりへの字になっている。見慣れたものだが面白い。
 私の執事、かつお目付け役のハンスが来たことで侍女たちは一礼して下がってしまった。
 まあ、この展開はいつものことだ。今からハンスの説教だろう。

「白雪姫、ケーキは悪魔の食べ物だといつも申しているでしょう」
「こんなにおいしいものが悪魔の食べ物なわけないよ。天使の間違いじゃないの?」
「いいですか! ケーキの主たる構成成分は糖分と脂肪です! 生クリーム、カスタードクリーム、はてはジャムに含まれる砂糖の量たるや、人間が摂取して良いものではありません!!」

 あ、紅茶がなくなった。
 侍女がいないので自分でおかわりを注ごうとすると、すかさずハンスがポットを取り上げてカップに注いでくれた。

「ありがとう」
「いえ。……お菓子好きは血筋とはいえ、何事も限度があります。先代の国王は糖分の過剰摂取で病を患い早逝されたのですよ」
「うん、それは嫌というほど聞いたけど」

 私のお菓子好きは祖父の影響と言っても過言ではない。
 祖父の部屋に訪れるたび、手品のように飴やチョコレートやカップケーキを取り出して幼い私にくれたものだ。なにぶん私が小さい頃に亡くなったので記憶ははっきりしないが、「おいしいだろう?」と笑う顏はおぼろげながらに覚えている。

「せめて、せめて半分になさってください!」
「そんなの無理だよ」
「無理ではありません! 半分でも多いくらいです!」
「だって、半分じゃ足りないし……」

 甘いものを食べると幸せになるんだよ、とは祖父から聞いた言葉だ。

 お祖父さま、あなたは正しい。
 こんなにおいしいものを我慢するなんて私には無理だ。一日に一口も食べないだなんてもっと無理。私にはできっこない。
 減らす努力を? まさかね。無理とわかっているのだから、試みるだけ無駄というものだ。

「白雪姫? 聞いておられますか?」
「うん、聞いてる、聞いてる」

 くどくどと説教を続けるハンスの言葉を聞き流すのは慣れたもの。素知らぬ顔で紅茶をすすった。

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2014. 2/17
◇Photo/ clef
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