「あ、このあいだのリンゴちゃん」
「リンゴ、ちゃん……?」
にこりと笑った男は、先日道端でぶつかった相手で、その際に私が落としたリンゴを拾ってくれたあの人で間違いない。
セリオ王子かもしれないと、おばさんたちが年甲斐もなく色めき立っていた彼だ。
……にしても。
リンゴちゃんとは、もしかしなくても私のことだろうか。
「ねえ、リンゴちゃん」
「やめてくれませんか、その呼び方」
正直、この人と話すのは気が引ける。
初対面で私のことを知っていそうな素振りを見せたのだ。話すことで私が貴族の娘であることが知られそうだ。
私にだって少しはプライドがある。乗っ取られて落ちぶれた娘と笑いの種にされるのは真っ平御免だ。
あの日から毎日、私が市場へ来るたびに彼と会う。「会う」と言うとお互いに意図しているようだから、「出くわす」と言うほうが正しい。
そして、彼の方から一方的にあれやこれやと他愛もない話を振ってきて、私がそれに二言三言返して。私が買い物を終えてから町を出るまでの短い間を二人で歩くのだ。
あまり邪険にできないのは、ぶつかってしまった負い目とリンゴを拾ってくれたお礼があるからだ。加えて彼が貴族だから。失礼な態度を取ると、不敬罪にされる可能性もある。
そうでなければ無視してさっさと帰るのに。
けれど、そんなこんなで結局もう一ヶ月近く経つ。お祭りはもう二日後に迫る。
溜め息をついた私の様子をどう思ったのか、彼は苦笑気味に微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ名前を教えてくれないかい?」
「あいにくですが、私に名乗るほどの名前なんてありません」
「ならリンゴちゃんのままだね」
「……あなたの方こそ、お名前くらいお教えくださってもよいのではありませんか?」
「君が名乗らないなら僕だって名乗らないよ」
だったら、わざわざ訊かないわ。
いつもなら、私の名を問う以外はしない。でも今日は違った。
隣に並んだ彼は少し躊躇いを見せ、歩みを落とす。
私のことなんか訊かないでくれればいいのに。自分で語るのも嫌になる。
お願いだから、訊かないで。
そう願う私の心なんて知らず、彼は無情にも問うてきた。
「ねえ、リンゴちゃん。君はどこかの使用人かな?」
「……ええ、そうですが」
「それはどこの?」
「ロルトノースの、カステーニャ家です」
「ああ……なるほど」
彼は納得した様子で頷く。
乗っ取られてからというもの、うちの屋敷は良い噂がないようだから。
いや、母が死んでから、か。
女主人が亡くなってから、家を任されたのは浪費家の男やもめ。貴族のなんたるかもわからぬ愚かな体たらく。
再婚したかと思えば、相手は金だけ持った成り上がりの寡婦。あからさまな思惑にも気づかず、家に名を連ねさせた。
主人が死んで本性を現した成り上がり。礼儀も格式も知らず、悪趣味ばかりを自慢する。今度は身の程もわきまえず、犬にも劣る娘を貴族へ宛がおうと目論見だした。
ああ、笑えるわ。汚名ばかりが塗り重ねられていく。
溢れ出す蔑みをにこりと笑みに変えて、青年を見上げた。
「それがどうかしましたか」
「君と、どこかで会ったことがあるんじゃないかと思ってね」
「気のせいではないでしょうか」
「かもしれないね」
このやりとりも××回目。
そろそろ茶番じみた散歩は終わり。町の出口が見えてきて、肩の力が抜けた。
「ところでリンゴちゃん」
と彼はまた口を開く。今日はやけによく喋る。
「明後日のお祭り、一緒に行かないかい?」
思いがけない誘いは、私の足を止めるのに十分だった。
数歩先で振り返った彼の顏には笑みがある。ただの人の好い笑み。
腹の底を窺おうにも裏が読めない。嫌いな笑みだ。
「バカじゃないですか」
「急に辛辣だね、リンゴちゃん」
「私は使用人です」
「……だから?」
「……っ、だから、」
言わなくたってわかるだろう。
口をつぐんだ私が反論をやめたと思ったのか、彼は一方的な約束を取り付けた。
「お祭りの日、いつも通る曲がり角で会おう」
「いえ、でも……私……」
「来たくなければ来なくてもいい。ただ、もし気が向いたら、ね?」
別れの言葉はいつもどおり。去っていく背中を見つめたまま、私はしばらく動けずにいた。
来たくないわけじゃない。ただ、お祭りの日だって私に休みはないし、お祭りに着ていくような服があるわけでもない。
皆が行きたがるお祭りなのだ。身代わりに留守番と仕事を押し付けられる者が必ずいる。私は、そのハズレくじを無理矢理握らされる可能性が高い。
もともと行かないつもりだった。
誘われるなんて思わない。
けれど、少しでも心が揺らいだことが自分でも一番信じられなかった。
「バカなことを考えるんじゃないわ……」
あとで痛い目を見るんだから。期待などするな。
そう言い聞かせた帰り道。
思考に反して、浮つきはなかなか治まってはくれなかった。
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2014. 7/6