頬が痛い。
 冷えた手を熱を持ったそこへ宛がうと、じんわりとした痛みが少しはましになった気がする。所詮は気のせいでしかないが。
 頬を打たれることはもはや珍しいことではない。けれども、せめて打つにしても限度というものがあるだろう。なぜ木べらで殴られなければならない。鉄でないとは言っても木だって十分に硬いのだ、素手で引っ叩かれるのとは比べものにならない。

「たかが買い物ひとつで……」

 なにより腹立たしいのは、殴られた理由が今朝の市場で買う物を間違えたからということ。
 あのふざけたババアめ。責任転嫁も甚だしい。
 買い物に行った私ではなく、間違いの買い物メモを書いた他でもない自分を殴れという話だ。

3.しゃの閑談

 再び町に戻ったものの、市場にはあまり良いものは残っていなかった。
 どうせあの奥方と娘たちの食材だ、良い物を買ったところで味なんてわかりゃしないだろう。
 ろくに吟味もせずに買い付ければ、渡されたトマトは色が悪いものばかりで思わず鼻で笑ってしまった。

「まいどあり」
「どうも」

 欠伸を噛み殺して次の店へ。馴染の牧場のおじさんはもういない。肉屋のおばさんも今日はもう店仕舞いのようだ。
 気怠く歩くうちにも、また欠伸がひとつ。

 昨日はあまり寝れていない。瞼や体は重いし、頭は上から誰かに押さえられているような心地がしている。加えて、朝から殴られて頭にきたから余計に無駄な体力を使ってしまった。苛立つにも怒るにも体力と気力がいる。
 まだ午前中だというのに、もう考えることもなんだか辛い。
 溜め息をついて適当に買い物を済ませ、重たい足を引きずって市場を後にする。
 広場から屋敷に戻るまで、不幸なことに階段と坂続きだ。嫌になる。
 郊外の屋敷が不便だと気づいたのは、馬車に乗らなくなってからのこと。両親が健在だった頃は、使用人の買い出しには荷馬車を使わせていたのに。あいつらにはそんな気遣いはできないし、する気もないのだ。使用人なんて家畜同然、いや、以下かもしれない。

 少し、疲れた、な……。

 今日は気分が滅入ってしまっている。
 これから夜までまた扱き使われるのだと思うと、あの屋敷に帰るのがとても憂鬱だった。
 そんな私の気持ちに反して、空はいっそ腹立たしいほどの晴天で。出来る限り明るい空と町を視界に入れないように俯いた。そしてまた溜め息。
 周りを見る余裕もなかった。

「っ!」
「おっ、と」

 こんなことは滅多にない。
 私はよほど疲れていたらしい。注意散漫で、気づいた時にはぶつかっていた。
 どんと衝撃が半身を襲い、その拍子に籠からぎりぎりのバランスで積んでいたリンゴが転げ落ちる。

「あっ――」

 やけにゆっくりと落ちるそれを横目に見て、我に返って、サッと血の気が引く。

 しまった、ここは坂じゃないか!

 鈍い反射は役に立たない。けれど、私が手を伸ばすよりも早く、地面に落ちるはずだったリンゴは軽い音を立てて誰かに受け止められた。
 腕を辿って見上げれば、ぶつかった相手だ。私とあまり年の変わらない、若い男の人だった。
 私は半ば呆然と、彼の手に収まる中途半端に色づいた実を見下ろした。

「大丈夫かい? ごめんね」
「い、いえ……すみません、余所見をしていた私のせいです」
「僕も注意不足だった。お互い様だよ」

 にこりと微笑んだ彼がリンゴを差し出す。あまりに綺麗に笑うものだから目を奪われてしまって、反応が遅れた。
 オレンジ色の柔らかい瞳が怪訝そうに覗き込む。

「どうしたの、大丈夫?」
「……っ、はい、すみません……」

 慌ててリンゴを受け取ろうと手を出したが、今度は彼が手を引っ込めてしまった。疑問とともに視線を上げて、戸惑った。
 さっきの笑顔は消え、彼はじっと私の顔を見ている。急に真顔を向けれられて、思わず半歩下がってしまった。

「あの……?」

 彼はなにか思案するように、少し眉をひそめる。まるで睨まれるような視線に耐えられず、私は胸元でリンゴを握る彼の手に目を落とした。人差し指に指輪がはめてあり、紋章が見える。この人はどこかの貴族だろうか。

 リンゴを拾ってくれたのではないのか。どうして渡してくれないのか。いったい何だと言うのだろう。もしかして、ぶつかったことが癇に障ったのだろうか。さっさと謝らないことが気に入らなかったのか。先ほどの笑顔からは、そんな人には見えないけれど、ぶつかったから服が汚れたとか……。

 ぐるぐると思考を巡らせていると、ようやく彼が口を開いた。

「……君、どこかで会ったことないかい?」
「……え?」
「たとえば、どこかのパーティーで、とか」

 ぴたりと一瞬だけ動きが止まってしまったのは、自分で思っているよりも動揺したからだろうか。
 彼はまっすぐ私を見つめている。大丈夫だと言い聞かせ、困惑したように眉根を寄せて微笑んだ。

「いいえ、そのような場に出ることはありませんので、人違いではありませんか?」

 今の私は、しがない使用人ですから。
 湧き上がった自嘲はぐっと腹の底へと押し戻した。

「そうか……ごめんね、人違いかもしれない」
「いいえ」

 相好を崩し、今度はあっさりリンゴを差し出された。受け取って丁寧にお礼を言う。
 ひらりと手を振り、彼はじゃあねと坂を上っていった。その背中を見えなくなるまで見送って、手にしたままのリンゴを籠に戻す。今度は落ちないように丁寧に覆い布をかぶせた。
 何事も面倒が起らなかったことへ安堵し、そっと溜め息をつく。また無駄に神経を使ってしまった。

「フェリシアちゃん!」

 今度はなんだと思えば、遠巻きに見ていたらしいおばさん数人が近寄ってきた。

「こんにちは」
「こんにちは、大丈夫だった?」
「ええ、平気ですよ」

 そんな心配もそこそこに、信じられないものを見たと目を見開くおばさんたちは、やけに高揚した様子で捲し立てた。

「ちょっとちょっと、それより!」
「そうよ! いまの人って王子様じゃないのかい!?」
「……は?」

 そんな馬鹿な。

 思わず蔑む口調と表情になってしまったのは仕方ないと思う。あまりに突拍子もないことを言ってくれたおかげで、取り繕う間もなく表に出てしまった。
 ただ、興奮状態のおばさんたちは私のことなど気にも留めず、若い娘にも負けない高い声できゃいきゃいと論じはじめる。

「絶対そうだよ、だってあんなに身なりが良いし」
「金ぴかの指輪をしていたしさあ!」

 確かに、あの男は、服も靴も上等品で、髪から肌から、爪の先まで身綺麗だった。
 なにより分かり易いのは手だ。市場で見かける人の手とは違う。屋敷で働く庭師や料理人、使用人や御者の手とも違う。ふと見下ろした自分の手はあかぎれとさかむけで痛々しく、爪だって欠けてボロボロだ。これは水仕事をする女の手。あの男の手は昔の私と同じ、苦労を知らない手だった。
 その手の指輪には家紋と思しき紋章があったから、貴族か金持ちなのは間違いない。身なりの良い者が王族とは限らない。

「黒髪に、オレンジ色っぽい目だったし」

 なるほど、王家の方々はみな黒髪だし、オレンジや茶の瞳が多いと聞いたことがある。しかし、それはこの国全体に言えることでもある。黒髪の人なら町にだってたくさんいる。茶色の目だって珍しくない。

「でも王子様のような身分の人がなんで下町なんかに……」
「そりゃ、城下の視察だよ!」
「王子様は庶民にもお優しい方だって聞くしさ!」
「いや、よく似た他人だとか……」

 いくら庶民派であっても、王族にもなればホイホイと城下にやってきたりはしない。来るにしたって必ず大勢の従者や護衛がつくものだ。
 王女ならともかく、王子と言えばこの国では一人だけ、次の王となるセリオ王子だ。念願叶って、五番目にようやく生まれたお世継ぎと有名である。そんな大事な人が単身で城下に出てくるわけがない。
 城を黙って抜け出せば大騒ぎになるし、この国の殿下はみな聡明な方だと聞くから、そんな真似は決してしないだろう。

 どうにも信じられなくて否定する私に対し、どうしても王子様だと決めつけたいおばさんたちはどんどん熱が入って説得しようとする。
 もう面倒だから頷いておこうかと思った時、おばさんの一人が自信満々で言い放った。

「私、一度だけ間近でお顔を見たことがあるんだ」
「なら間違いない、きっとそうだよ、セリオ王子だ!」

 ……そんなまさか。

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2014. 5/26
◇Photo(元画像)/ clef
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