人生の転機なんていつ訪れるかわからない。良い方にも、悪い方にも。

 私はもともと貴族の娘だった。あまり位は高くないけれど、系譜は長く続いていたし、生活にも不自由はなかった。
 先祖代々のお屋敷は古くて趣があって、居心地が良かった。庭は母の好きな花で溢れ、よく芝生の上で愛犬たちと遊んだものだ。
 使用人たちとも仲がよかった。いつも大人はにこやかに頬笑んでくれたし、下働きの子供たちも仕事の合間におしゃべりや遊びに付き合ってくれた。厨房にいけば、時々だけれど内緒でおやつをもらえた。

 あの頃が一番、幸せだったのだ。

2.いあくの日々の繰り返し

 私の人生最大かつ最悪の転機は7歳の時だ。母が病死し、婿養子の父は母がいなければもできない体たらくの浪費家でしかなく、家は一気に傾いた。子供の目で見てもわかるほどに、屋敷の雰囲気は暗いものに包まれていった。
 使用人たちは次々と辞めていったし、庭師がいなくなった庭は荒れ果てて、私と遊んでくれる下働きの子供も減った。屋敷の掃除は行き届かなくなり、料理も格段に質が落ちて美味しくなくなった。

 このまま没落するのかと思いきや、父に再婚の機がやってくる。相手は、お金持ちの旦那を失くし、財産と二人の娘だけを残された未亡人。狙いは貴族という看板だった。
 没落だけは避けたかったらしい父は、お金に目が眩んでその人と再婚する。……が、その父も私が11歳になる頃に死んでしまった。

 父の死後、継母と義姉二人はこれ幸いと家を乗っ取った。優しかったのが一変し、私は使用人として扱き使われて、今ではすっかりボロをまとうみすぼらしい下女だ。

「フェリシア! いつまで掃除してんだい! まったく、とろくさいったら! 早く洗濯物を取り込みな!」

 今日も今日とて怒鳴られる。仕方がないじゃないか。今日は特に洗濯物が多くて時間がずれこんでいるのだ。
 がみがみとうるさい使用人頭は、また別の誰かを怒鳴りながら廊下の向こうに消えた。

「はいはい……っと」

 喚くくらいならお前が掃除しろ!
 あのババアときたら、誰かを見張るばかり、文句をつけるばかりで自分は動きやしない。
 舌打ちとともに汚れた雑巾を床に投げつけた。ベシャリ、灰色の水が大理石に広がって、泡を吹く。隣のバケツは洗剤と汚水がぐるぐると渦を描いていた。

「ちょっと、あなた」
「……なにか」
「これ、追加よ」

 洗濯物を畳む途中で声をかけられ、いったい何だと顔をあげると、重そうな籠がどんと隣に下ろされた。

「お嬢様が紅茶を零されたの。ナプキンとドレスとテーブルクロス、洗っといて。今日は温かいし天気もいいし、夜の間でも乾くでしょう」

 苛立ちと溜め息を混ぜながら使用人の彼女はそう告げた。どうやら今日は彼女がティータイムの後片付けをしてくれたらしい。それは良いのだ。一つ仕事が減ってありがたい。
 だが……、

「はぁ……」

 やっと洗濯関係が終わるというところだったのに、なんてことをしてくれるんだ。
 ふつふつと怒りが湧くのは致し方ないと思う。これが一度や二度でないからまた腹立たしい。あいつらときたら、学習能力がないのか。

「またですか。犬じゃあるまいし、手すらまともに使えないなんて」
「……それ、聞かれないようにしなさいよ」

 クビになっても知らないから、と彼女は仕事に戻っていった。

「お気遣いなく」

 クビになんてなるわけがない。そもそも労働契約すら結んでいないのだから。契約書がないから、賃金だって貰っていない。

 新しく雇われた使用人たちは、私がもともとこの屋敷の主だったとは知らない。あの使用人頭のババアがその代表だ。アイツも何かとクビをちらつかせることがあるが、意味がない。
 むしろ辞められるならとっとと辞めたいものだ。

 とにかく先に畳んだ分を所定の部屋に届けてしまい、追加分に取り掛かる。
 一度直した道具や洗剤を出すほど面倒なことはない。一度で終わるべき仕事を何度も繰り返すのは馬鹿馬鹿しい。

「ちょっと、アンタ!」
「はい?」

 テーブルクロスの染み抜きをしているとまた呼ばれる。今度は何だと思えば、別の使用人が眉間に深い皺を寄せて、戸口から呼んでいた。……ああ、嫌な奴が来た。

「アンタでしょ、玄関ホールの掃除、途中で放ってるの! さっさと片付けなさいよ!」
「見ての通り別の仕事を言いつかったので――」
「言い訳なんて聞いてないわよ! アンタが放置したバケツが邪魔なの!」

 言いたいことだけ捲し立てて、彼女は屋内に入っていった。
 彼女は、あの使用人頭のババアと同じで、他の使用人の仕事は見物しかしない。娘たちの侍女役という名のご機嫌取りであり、使用人頭に仕事の不出来を告げ口をするという厄介なこともしてくれる。

 だいたいバケツが邪魔だと言うけれど、目に着かないように、他の使用人の通行の邪魔にならないように、ちゃんと脇に避けておいたはずだ。目敏いというか、人の粗探しだけが得意らしい。
 ……でも、使用人頭に見つかる前に、バケツは片づけたほうが賢いだろう。
 そう思って、ナプキンを洗剤に漬け込み、ホールに戻ってきて見れば、だ。

「くそっ……」

 あの女!!

 玄関ホールの片隅にやっていたバケツは見事に蹴倒されて、汚水が広がっていた。
 せっかく磨いたというのに!
 口の中で小さく罵り、苛立ちで歯を噛み締めた。
 しかも、誰もこれを片づけようとはしなかったのか!

 使用人の質も悪くなったものだ。つくづく思う。わがまま放題の嫌な主人と、暴言と暴力が常習の使用人頭の下で働くから、他の使用人たちも愛想がなくなり、今はそのほとんどが常に無表情で嫌々ながらに仕事をしている。自分に与えられた仕事以外はしようともしない。

 まだ洗濯は残っているし、もうすぐ夕食が始まるからお風呂の準備もしなくてはいけない。
 身は一つ、腕は二本しかないというのに、あれもこれもとできるわけがない。

 仕方ない。あまり目立つ場所ではないし、汚水を拭くだけにして、磨くのは明日にしよう。
 手早く床を片づけて洗濯に戻れば、あのババアがわざわざやってきて、遅い、手を抜いている、と喚かれ、殴られる羽目になった。
 本当に、目敏さだけは一級品だ。

 不手際の罰は、追加の掃除だった。
 ひとつ、おざなりにした玄関ホールを隅々まで磨くこと。
 ふたつ、娘たちが明日ティータイムを過ごす予定のテラスを掃除すること。

「バッカじゃないの。こんな暗い中で灯りもなしに掃除なんて。私はフクロウでもネコでもないのよ」

 夏もすぎて、夜は冷え込む日が増えた。なのに、なにが悲しくて薄着で夜のテラスを磨かねばならないのだ。水は昼間とは比べものにならないくらいに冷たい。
 口からは悪態が絶えない。これを本人を前に言ってやれればどれだけすっきりするだろうか。

 かさり、

 ふいに落ち葉を踏みしめる音が耳に届く。
 顔をあげて辺りを見回すが、暗闇があるだけでなにも見えない。足音は近づいてくる。
 一人ではないらしい。……もしや泥棒だろうか。

「……あなたたち、どうしたの?」

 果たして、現れたのは男女二人の使用人だった。

「わたくしどもが替わります」
「お嬢様は中へお入りください。お体に障ります」

 そういったのは女の使用人。二人とも昔からこの屋敷で働いていて、私が屋敷の主だったと知っている数少ない使用人だ。

「もうお嬢様じゃないわ。ただの使用人よ。掃除するのは当然でしょう」
「いいえ、お嬢様はお嬢様です。本当はこんなことをするべき人では……」
「亡き奥様がお知りになったらいったいどんなお顔をなさるか……」
「やめなさい、他の人に聞かれたらどうするの」

 どうしてわからないの。
 馬鹿なことを言わないで。
 いくら生まれが良かろうが、没落してしまえばただの娘だ。お金や権力、屋敷や土地の有無など、持ち物に差はあっても、個々の人間自体に差はないのだから。
 貧しい中からのし上がる者もいれば、富める者から転がり落ちる者もいる、それが人生だ。
 お金と権力は結びつく。片方を失くしてしまえばもう片方も消えていく。父親が家を傾かせた時点で、私が落ちる者になることは決まっていたのだ。
 仕方のないこと、なのだ。

「ですが……っ」

 彼女は泣きそうな顔をする。手を口に当て、震える声で私の聞きたくない言葉を絞り出す。

「町の貴族のお坊ちゃまと婚約までされていたのに……っ、どうして婚約破棄をしてまで使用人などに……」

 ああ、本当に。わかっていないのね。
 思わず鼻で笑ってしまう。さぞかし歪んだ笑みなのだろう。

「誰がこんな下女を娶るっていうのよ」

 それも王族や貴族、金持ちの子息が。綺麗なものしか見ない部類の人間が。
 お互いの貴族の家柄と、資産があって初めて成り立つ婚約なのに。
 白馬の王子様? 舞踏会? 妖精のおばあさん? 魔法の馬車に、ガラスの靴?
 そんなおとぎ話なんてあるわけないじゃない。

 吐き捨てれば二人は黙り込んだ。

「私のことはいいから、さっさと休みなさい」

 こんな人生やってられない、と何度も思った。けれど嘆いたってどうしようもない。嫌だからと自ら命を絶つなんて、負けるようなものだ。大嫌いなあいつらから逃げるみたいで、しかもあいつらを喜ばせるだけなんて、それこそ癪ではないか。

 生きていればいずれ機会が来るかもしれない。
 そう、落ちてしまったなら今度は成り上がればいい話だ。

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2014. 5/26
◇Photo(元画像)/ clef
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