ああ、死にたい。
 そう思って、すぐに馬鹿げていると思い直した。

 私、もう死んでるじゃん。

 膝に埋めていた顔を上げて、膝を抱え直した。下から吹き上がった風が前髪を跳ね上げて、私は目を細める。
 ここは、あの世。死後の世界。
 辺り一面は真っ白な雲の大地。そして果てしない空。空を見上げたって太陽も月も見えないけれど、ここではいつも晴れていて、夏の晴れた日の空の様な、すこーんと抜けるような蒼穹が広がる。正直むかつくほど清々する光景だ。
 あの世を管理しているお役所のほうへ行けば建物がちらほらあるけれど、そのどれもがシンプルで白一色。汚れなんてない、洗いたてのシーツもびっくりの本当の真っ白だ。つるりとした建物の外壁は青の空と白い雲の大地を反射し、窓ガラスは(あれがガラスなのかは謎だけれど)空の青を切り取って張りつけたようなもので、結局この世界に白と青以外の色はない。
 あの場所にいると、白い服を着ている私もうっかり白い中に溶け込んでしまいそうになる。そう錯覚することが嫌で、私は毎日ここへ逃げてくる。
 なぜなら、ここには唯一、色彩があるから。

 私がいるのは雲の大地が丸く開いた場所。その空洞には、まるでたっぷり満ちた水に景色が映るように、私の望む景色が映し出される。眼下に広がるのは、向こうの世界――そう、かつては私もいた現世だ。
 穴から風が吹き上がるたび、映し出される景色は変わる。景色はすべて鳥の目線だ。空高く町全体を見下ろした景色や、どこかの商店街の人ごみ、大都市のスクランブル交差点、はたまた体育の授業でもしているのであろうどこかの学校の運動場、パソコンやデスクに向き合って会社員が忙しなく働くビルのオフィス、時には主婦が洗濯物を干している庭先などなど。また風が私の前髪を揺らした。

「お嬢さん、またそこにいるんですか?」

 ふと聞こえた声に振り返れば、それは私を“こっち”に連れてきた張本人だった。

「死に神さん」
「そんな嫌そうにしなくても……」

 風変わりな様をした男は、胡散臭いほどニコニコした笑みを湛えて、足音もなくやってきた。まあ、雲の上だから屋内でない限り足音なんてしないんだけれど。

「まぁだ現世の未練がおありですか?」

 のったりとした、わざとらしい丁寧口調は、おそらく多くの人を苛立たせるだろう。今の私みたいに。我知らず、眉間に力がこもる。

「悪い?」
「悪いとは言いませんが、もう四ヶ月も経っているんですよ?」

 男は傍らにまでやってきて膝を抱えてしゃがみ込み、私の見つめる雲の穴を覗き込んだ。ぎゅっと体を縮めたその体勢にまで、なんだか苛立ちを覚える。

「そーね」

 私はいい加減な返事をする。

「いー加減、さっさと未練を切り捨てて、転生の準備でもしたらどーですか?」
「イヤ」
「ほら、あなたの後に来た人だってみーんな新しい命に生まれ変わっているんですよ?」
「転生とか、そんな気分じゃない」
「気分云々を言われましても……前にも同じこと聞きましたけどねえ」

 ああ、そうだ。
 そう。腹立たしいのは、きっと悔しいせいもある。

 死んでからこの雲上の世界へ来るまでの一部始終を思い返しても、溜め息が出る。
 死に神であるこの男を天使だなんて思ったのも癪だし、なんだか騙された感が否めない。

 男に連れられてあの世まで来たものの、私は目前に迫った転生に怖気づいて、いまだに逃げ続けている。新しい人生に対する漠然とした不安は誰もが感じるらしく、嫌がる人も少なくないので、あの世には私たちが寝る場所もあるし(ご飯やお風呂なんかは必要ない。お化けだから)、あの世の役人たちも無理に急かしたりしない。大抵は三ヶ月以内に吹っ切れるか覚悟を決めて転生するからだ。その点、私は……。

「転生鬱もこう長いと心配ですねえ」

 男が呟く。何だと思って顔を向けると、じっとこちらを見ていた男は、ふむ、と顎に手を当てた。

「え? なにって?」
「転生鬱です。転生を前に鬱になることですよー。現世に執着するわりに、転生は頑なに怖がって拒絶するのが特徴です。お嬢さんは典型的ですねえ」

 大仰に溜め息をつかれてまたイラッとしたが、間違いではないのでなにも言えない。
 だって、と言い訳の前置きばかりが口をついて出る。

「もし、生まれ変わったら、今の記憶はなくなるんでしょ?」
「まあ、消されますから。たまに覚えている人もいますが……」
「生まれ変わった後で、私の家族や友達に会っても、私はその人たちと“初対面”になるのよね?」
「そうですね」
「向こうは私のことなんてわからないし、私も忘れちゃってるのよね?」
「そうなりますね」

 自分が知っているはずの人のことを、何もかも忘れてしまって、わからなくなる。そんな光景を想像すると、どうしようもなく不安と寂しさが胸を襲う。一緒に生活した家族が他人になり、あれほど仲の良かった友達との思い出も失ってしまう。もちろん、新しい家族や友達ができるのだろうけれど、それでも……。

「もし、新しい家族がひどい人たちだったらとか、新しい友達ができなかったらとか……考えたら考えるだけ……」

 もし、生まれる前に中絶されたら。もし、虐待をするような親だったら。もし、殺されてしまったら。そんな「もし」は、家族に対するものだけでもたくさん浮かんでくる。
 虐待をする家庭は、痛いし辛いだろう。仕事が忙しくてあまり構ってもらえない家庭は、寂しくて心細いだろう。
 考える度に、胸にずしりと重いものが沈む。息苦して泣きたくなってしまう。

 馬鹿な私は、普通だと思っていた自分の家庭が、案外幸せだったのだと死んでから気づいた。

「確かに、家庭環境に恵まれない人もいますし、すぐに死んでしまう人もいますが……そうでない人はたくさんいるんですよー。現に、お嬢さんだってその一人でしょう」
「私も途中で死んだじゃない。こんなに若いのに……」

 男は黒い目をこちらに向けて、にべもないですねー、と苦笑した。
 私は膝の上で腕を組んで顎を乗せ、また変わる現世の様子を眺める。二人して膝を抱えてじっと穴を見つめる様は少々滑稽かもしれない。

「本当は、こういうことを言ってはいけないんですが……」

 男はそんな前置きをして、少しだけ黙り込んだ。そして、今度はどこかの公園を映し出した穴を見つめながら、口を開く。

「あなたはいつも考えすぎなんですよー。前の時も、その前の時も、転生の度にうじうじと悩んでばかりです」
「え、なにそれ」
「“お嬢さん”に生まれ変わる時も、“彼”はさんざん悩んで悩んで、転生するのに五ヶ月かかりました。けれど、お嬢さんの生まれた家庭はなーんの問題もなく、学校でも友達に恵まれたでしょう?」
「そう、だけど……」
「“彼”に転生する前の“彼女”は一年はここにいましたねー。ですが、“彼女”の悩みも杞憂で、“彼”も家庭や周囲に恵まれていました」

 わかりますかー? と、相変わらずの口調ではあるが、男が薄く笑みを浮かべながらこちらに顔を向けた。あの胡散臭い笑顔ではなく、ただただ親しい人を見守るような穏やかで優しい笑みだった。

「あなたが転生する時は、いつも当たりくじばかり引いているんですよ」

 ふわりと、吹き上がった風が私たちの髪をはね上げた。

 それと同時に、ぴゅうっと、私の頭や胸でもやもやしていたものも風に吹かれてどこかへ飛んでしまったようだ。
 もやもやと入れ代わって、なんだかくすぐったい気持ちがやってくる。それに、頭の隅っこがむずむずする。なんだろう。眉間に皺を寄せたいような、逆に笑ってしまいたいような、変な感じ……。

「お嬢さん?」
「…………」
「あの……お嬢さん?」

 はっと我に返ると、男が不思議そうな顔をしていた。
 じっと、男の顔を見つめていたらしい。

 そうだ、今更ながら気づいたけれど、この人……。

「……ワタシの顔に何かついてますか?」
「……死に神さん、意外と美人さんなのね」
「そうでしょー。お嬢さんも惚れちゃいましたかぁ?」
「うん。かもしれない」

 軽口をたたいてからかったつもりが、私がごく自然に反応したので、彼は拍子抜けして口をつぐんだ。パチパチと瞳を瞬いてあたしを見返す。

「そー、なん、ですか?」
「うん」

 えーっと、と落ち着かなさげに口ごもる姿は、なんというか、急に人間臭くて可愛らしい。思わず口元が緩んだ。

「ねえ、死に神さん。名前、なんて言うの?」
「名前なんてないですよ」
「嘘だ」
「……じゃあ、ジェスターとでも」

 言い方からするに本名ではないのだろう。
 「死に神さん」以外の呼び名が欲しくなっただけで、本名を言いたくないのなら別に構わない。

「ジェスター。仕事のノルマが終わったら、死に神も生まれ変われるんでしょ」
「……知ってたんですかぁ」
「うん」

 私がここへ来てすぐ、とある死に神が転生した。彼女は時折り私に声をかけて、現世の他愛のない話をしてくれていた。最後に会った時に、死に神も仕事のノルマを達成すると転生できるのだと教えてくれた。嬉しそうな顔は今でも覚えている。

「ジェスターは、あとどれくらいの人をあの世に連れて来たら仕事が終わるの?」
「さぁて、あと五千人か五万人くらいですかね」
「千と万って結構な差があるよ」

 一と十ならそうでもないけれど。

「いずれ終わりますよー」
「終わったら、ジェスターも生まれ変わるよね?」
「ええ」
「そうしたら、私と一緒に生まれ変わってよ」

 にこりを笑みまでつけたのに、ジェスターは奇妙な物を見る目で私を見た。

「お嬢さんって言うことが突飛ですよね」
「だって今思いついたんだもん。いいでしょ? 兄弟でも幼馴染でもいいから、私と一緒にいてよ」

「お嬢さん、知ってます? 世の中そんなに器用にいかないものですよ。転生先なんて選べません」
「いいの。なんとかして」
「いや、答えになってませんし……」

 ジェスターが困ったように少し眉根を寄せた。

「しかもワタシ、お嬢さんが生まれ変わってくれないと仕事が終わらないんですけど。あなたもワタシの仕事のノルマの一人だって覚えてますかー?」
「じゃあ、最後の最後に私が先に行くから、ちゃんと後から来てよ」

 はー、と最大級の深い溜め息がジェスターから漏れた。

「どうしてこだわるんですか?」
「いーじゃない」
「私の仕事が終わるのを待つ間に、お嬢さんはもう一回くらい転生できますよー」
「それはだめ。生まれ変わったらジェスターのことも忘れるでしょ」
「いえ、どうせ転生したら忘れますよ」
「それでもいい」
「困りましたねー」

 そうは言うけれど、あまり困ったふうには見えにない。いつものふざけた口調だ。
 また風が吹きあがり、雲の穴にはどこかの小学校が映し出された。今は休み時間らしく、子供たちが各々元気に遊んでいる。
 ジェスターの横顔から、私も現世の様子に目を向けた。

「言ったでしょ。生まれ変わった先がどんな場所かわからないから怖いって」
「お嬢さんは大丈夫ですって」
「それでも怖いの!」
「……本当に、心配性ですねー」
「でも、ジェスターが一緒に生まれ変わってくれるなら、怖くないと思う。……たぶん」
「たぶんですか」

 仕方ないですねー。お嬢さんがそれでいいなら、構いませんが……。

 諦めたのか、吐息まじりに言うジェスターの髪をまた風が揺らす。さっきみたいにジェスタ−の表情が柔らかい。穴にはどこかの病院が映し出されていた。

 私自身、生まれ変わってしまうのが寂しいのは本当だけれど、ジェスターも寂しいんじゃない? 不安に思ってるんじゃないのかな。

―― あなたはあなたが転生する時は、いつも当たりくじばかり引いているんですよ。

 そう言った時のジェスターは笑っていたのに、なぜか悲しそうで寂しそうだった。私の気のせいかもしれないけれど、その笑顔が自嘲的に見えた。細められた目に、優しさや穏やかさとは違うなにかが混ざったように思えたのだ。

 ねえ、寂しいなら、一緒にいようよ。
 ジェスターがそうでなくても、私が寂しいから、やっぱり一緒に来て欲しい。
 私がいつも当たりくじを引くなら、ジェスターも一緒に来ればいいよ。そうしたら、二人で幸せになれるでしょう?
 もし、ジェスターだけ外れくじだったなら、私の分の当たりを分けてあげるから。
 ね? 悪い話じゃないでしょう?

「じゃあ、約束ね。一緒に生まれ変わって」
「わかりましたよー」
「忘れないでよ」
「ワタシの記憶より、お嬢さんが待てるかどうかを心配してくださいねえ」

 現世を映す穴に、病院から出てきた若い男女が映った。新たな命を抱えて、幸せそうに笑っている。
 私たちもあんなふうに腕に抱かれるなら、その日が少し待ち遠しいと思えた。

(あの時、独りだった私を地上から連れ出してくれた時のように)

(今度は私が、一緒に地上に行ってあげるよ)

end
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以下 アトガキ (*反転)

ジェスターたち死に神は、未練があったり恨みがあったりして、自力であの世に逝けない人を迎えにいく役目を担っています。
死亡予定者のリストを持って魂を狩りに行くような行動派ではありません←
大抵の人はすんなり昇天してくるので、迷っている人や遅れている人を、お喋りで気を逸らして、やんわり誘導する係です。
ただし、地縛霊ばりに執念深い人には、強面の“行動派”な死に神が強制連行にやってきます。

なにはともあれ、お嬢さんはもうしばらくあの世ライフを満喫するようです。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

2013. 3/10
◇Photo/ 戦場に猫
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