本当はわかってた。もう私はいない存在なんだって。
 とっても、はっきりしてた。今でも覚えてる。
 でも、みんなに一目会いたくて、ずっと泣いて――

 ――そうして、意識が、遠退いていった。

「あなたですか――」

 誰も来ないはずの場所に、コツリ、と硬い靴音が響いた。

「――ここに居座っているのは」

 声は、耳がこもってしまうような強い風に吹かれていても、はっきりと私の所まで届いた。
 高い、高い、鉄骨の塔。その一番高い所で、地上よりも荒っぽく冷たい風がずっと私の顔を撫でていた。そこは工事中のまま人の来なくなったビルの成り損ないだった。
 誰も来なくしたのは私だ。他の誰でもない、私。
 来る人を片っ端から追い返した。大抵の人は、小さな物音を鳴らすだけで怖がって逃げていったし、それでも逃げなかったら鉄骨の一本や二本をがたがた揺らして、必要があれば転がすぐらいはする。そうすれば怖がらない人なんていなかった。
 特殊な人間が来ても、私がいる場所まで来られないように道を塞いじゃえばいい。地上からじゃ、説得の声もこの風にさらわれて聞こえやしない。
 そうしたら、ほら、いつしか誰も来なくなった。その時からずっと、ここは私だけの場所で、誰かが来ることなんてなかったなずなのに。

 私は、ずっと前を向いていた顔をそちらへ向けて、その珍しい訪問者の顔を見た。
 男だった。私よりは年上みたいだったけれど、まだ二十代くらいだろうという若い男。一目で「変わっている」とわかった。だって、どこかの漫画やアニメにでも出てきそうな、この世界にはコスプレ衣装以外にない、とても変わった服を着込んでいる。
 彼は、パチリと手に持っていた懐中時計の蓋を閉じた。金の鎖が長く伸びて、彼の腰に繋がっている。時計はするりとポケットに落ちる。
 私と目が合うと、その男は胡散臭いほど人の良さそうな笑みを、西洋人とも東洋人とも言い切れない、また北国出身でも南国出身でもない中性的な顔に張り付けた。もちろん、アフリカや中東、東南アジア系でもない。彼は、どこそこの国の出身だと言われても、きっとどれもしっくりこないだろう。そんな顔立ちだった。

「……どうやって来たの?」

 私は囁くように尋ねた。
 男の風貌などどうでもいい。まず聞きたかったのはここへ来た方法だった。
 ここに人は来ない。来させない。それに、来たら私はすぐにわかる。でも、男が来たことはわからなかった。こんなに近くに来て声を掛けられるまで、ぜんぜん気づかなかった。

「どうって、そりゃ、階段からですよ」

 ワタシは空を飛べませんからねえ、幽霊じゃあるまいし。そう男はのったりとした口調で言い、何が面白かったのか、ひとりでケタケタと笑った。
 私が無言の無表情でじっと見つめていると、男は溜め息と一緒に笑いを引っ込めた。

「お嬢さん、こんな所で何をしているんですか」

 私は真正面に顔を戻し、視界を遮る物がほとんどない開けた景色に目を向けた。

「見てるの」

 ここは、この町で一番高い建物のひとつ。正確には、そうなるはずだった、骨組みだけの建造物だ。だから町をほとんど見渡せる。上の方へ目を向ければ、電線にも邪魔されない空が広がる。遠くまで。
 ゴウ、と唸りをあげて夕方の風が顔を打った。

「ここにいて寒くないですか?」

 不意の強風に少しふらつきながら男が尋ねた。

「べつに。寒さなんて慣れた」

 もう今は寒いと感じない。
 男は慎重に、靴の幅しかない鉄骨を渡って、私に近づいた。二人が手を伸ばせば指先同士が届くくらいにまで距離が縮まる。
 視線だけを向けて様子を窺っていると、男は目を細めて、私が向いている景色を見る。

「見ていて楽しいですか?」
「……空がキレイだと思う」

 空は地上から見た時と変わらずにキレイ。
 けれど、私がいた地上は――

「お嬢さん、ここにいて何がしたいんですか?」

 私の思考を遮るように、男はまた質問を重ねた。

「見ていたいの」
「景色を、ですか?」
「そう」

 私だけが見る、この特別な景色。ずっとずっと見ていたい。

「確かに壮観ですけどねえ……でも、景色だけですか?」
「…………」
「景色だけじゃないでしょう?」
「…………」
「お嬢さん、ここにいても独りぼっちですよ」
「……わかってる」

 だって、私がみんなを追い出した。誰も来ないようにと願って、誰も来ないようにした。
 私がそう望んだのだ。

「誰も来ないの、寂しくないですか?」
「ぜんぜん」

 そうですか、と男は納得したように頷いた。そして、「じゃあ――」と続ける。

「じゃあ――どうして空ばかり見るんですか?」

 理由なんて考えたこともなかったから、少し悩んで、答えるのに時間がかかった。

「空が、最後に見たものだから」

 その光景は、赤く染まりつつある空だった。
 空と、組み立て途中の鉄骨の塔だった。夕日を浴びた塔は、その冷たさを思わせない、綺麗な金色に染まっていた。その背後の空は、黄色からオレンジ色を経て深紅のグラデーションを成していた。
 綺麗すぎて、悔しいくらいだった。腹立たしいほど美しかった。

「……地上なんて――」

「地上なんて、見たくない。地面にいたって何も楽しくない。嫌なことがあるだけだもの」

 最後の記憶は、苦痛ばかり。
 重たくて、痛くてしょうがなかった。「痛い」と口にすることすらできず、息苦しさに呑まれていくあの恐怖。
 誰も助けてくれず、みんながみんな、血相を変えて騒ぎ立てるだけの薄情さに怒鳴りたかった。騒ぐ声がただただ耳障りで、うるさかった。
 状況を知って、悔しくて仕方なかった。どうして私が、と何度も繰り返した。
 そうするうちに景色がかすんで、瞬きをするたびに瞼が重くなって……。
 目を閉じた時、ダメだと悟った。

 次に目を開いたら、この高い塔の最上階にいたのだ。
 下を見ても、足は竦まなかった。自分のものであろう汚れで一部だけ黒ずんだアスファルトの道路を見下した。黒ずみの横には、工事中の仕切りの壁に沿わせて鉄骨が数本、寝かせて置いてあった。汚れは拭かれているようで、その上遠目だから目立たない。けれど、あれが私の命を奪ったのだとすぐに理解した。
 思うことはいろいろあっても涙は滲むことすらなく、それから先、もう一滴も流れることはなかった。
 目頭が熱くなるだけに嫌気が差して、景色を遮断したのを覚えている。すると、閉じた瞼の裏に、どこかの建物の窓があったことも。窓は薄く開いているのか、真っ白なカーテンがふわりと緩くはためいていた。窓の奥には、ベッドがあった。白いシーツ。白い上掛け。そして白い枕の上に、白い布で覆われた何か。
 その日は、ずっと何処からか誰かのすすり泣きが響いていた。

 数日して、私はこの場所から動けないことを知った。私の命が尽きた場所へ、花やお菓子やジュースを手向けて、手を合わせる家族や知り合いたちを黙って見下ろした。
 誰も上を見上げてくれなかった。見上げても、気づいてくれない。
 私の声も聞こえていないのだ。どれだけ声を張り上げても届きはしないと知った。
 またイライラだけが増してきた。

 再開した工事の音にも苛立った。
 言葉を交わし合う人の声に、胸の中で何かが暴れた。

――私は、誰とも話せないのに……――

 私は、このビル建設の邪魔をしだした。きっかけは、日々溜まるばかりのイライラを発散したくて、そばにあったヘルメットを蹴飛ばしてみたことだ。すり抜けるかと思っていたそれは、呆気なく飛んでガラガラと転がった。そして、物になら、なにかしらの作用を与えることができると気づいた。
 発散の仕方を、思いついた。最初は、揃えて置いてある建材をぐちゃぐちゃにしたり壊したり、夜のうちに物の置き場所をてんでバラバラに乱した。誰のせいだ、お前がやったのかと犯人捜しをする作業員たちが可笑しかった。次に、機械を動かなくしたり、ガンガンとけたたましい音を鳴らしたり、鉄骨を揺らしてやった。みんな――そう、私と変わらない年頃の若い青年から、がっしりした厳しそうな中年、さらに年上の熟年の作業員まで――みんなが怖がった。
 私の存在にようやく気づいた。あの時の気持ちは達成感に近い。やっと気づいてくれた。
 笑みを浮かべたのも束の間のこと、彼らは私を追い出そうとした。だから、私が逆に追い出した。一時期は人がたくさん来たけれど、誰も彼も追い返して、一人たりとも来られなくした。
 そうして誰も来なくなった。

 後悔はない。いい気味だ。ざまあみろ。

「お嬢さん。本当は、下を見るのが怖いんでしょう」

 わかった、と男はからかうように言い放つ。とても自信満々に、図星だろうと言わんばかりに。

「……帰って」

 この男も彼らと同じで、うるさい。邪魔だ。

「関わった人々がお嬢さんのことを忘れて毎日を過ごすのを、見たくないんでしょう」
「うるさい!」

 私は立ち上がって、空を背後に男と向き合った。睨んだ相手は、ふざけたようなからかい口調に反して無表情だった。それに少したじろぐも、苛立ちが鎮火されることはなかった。

「自分だけ取り残されていると知るのが怖いんでしょう」
「うるさい! あなたに関係ないでしょ! 帰ってよ!」

 私が怒鳴ると、近くにあった鉄骨がグラグラと揺れた。男はちらりと一瞥しただけで驚いた様子もない。

「へえ、こうして脅かしていたんですね」
「……っ!」
「こんなことをしても――」

 うるさい。邪魔。消えて。

「帰ってったら!」

 ついに鉄骨が倒れた。男へ目掛けて。当たるかと思われた。でも違った。

「残念ですけど、ワタシには利きませんよ」

 間近に声が聞こえる。男は目の前にまで近づいていた。
 男の手が私の肩に触れた。触れるはずはないと頭を過ったが、またしても予想は裏切られる。肩に久しぶりの質感を感じ、ぐっと押されて私はよろめく。とっさに片足を後ろに引くも、体はビルの外へ投げ出される。

 落ちる――。

 また予想は外れた。あおむけに倒れた私をまたいで、空を背負って立つ男は、とても胡散臭い笑みを浮かべている。

「え……」

 固い感触に手をついてわずかに上半身を起こしてみると、私たちはまだ空中にいた。さきほどまで私たちがいたあのビルの最上階は、私の足先のちょっと向こうに見える。
 なんで?
 私がどう頑張っても、ビルの枠組みの外には出られなかったのに。

 男は私の体をまたいだまま、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「ねえ、お嬢さん。お嬢さんも、こんなところに取り残されないように前に進みましょう」
「い……いや……」

 なんなのだ、この男。
 初めて――命を失い、あの場に縛りつけられてから初めて――怖いと思った。
 男の言葉などほとんど聞きもせず、思わず拒絶の言葉が漏れる。男は困ったように眉を寄せ、小首を傾げた。

「そうは言われましても……ほら、死んだ人はみーんな、あの世に逝くんですよ」

 ふと指差された方を見ると、男と同じような恰好をした人と、私と同じでどこか生きている人間が持つ鮮やかさを欠いた人が、連れ立ってどこかへ向かっている。
 あんなの、さっきまで一度も見なかったのに。

「いや……嫌! そんな気分じゃない」

 私は肩を竦めて、両手を握り締めた。

「ダメですよ。逝かないと」
「嫌! あの世なんて、い、逝きたくない!」

 自分の意思とは別に、体が震えている。こんなに怖いのはどうしてだろう。
 震えをどうにかしたくて、私はきつく目を瞑り、両腕を胸に抱え込むようにして体を丸めた。

「逝きたくない……お願い……ここがいい……」
「大丈夫ですよ。怖がらないでください」

 男の手が肩に触れたけれど、私はただ頭を振った。

「ワタシが一緒に逝きますから、ね?」

 宥めるように、肩にあるのとは別の手がうつむく頭を撫でた。気安く触るなとか、さっきまでなら言えただろうに、その手を振り払うことすらできないほど必死だった。

「あんな所で独りは嫌だったでしょう? でも怖くて来られなかったんですよね?」
「ちがう……」
「違いませんよ。ワタシが来ないと、あそこでずっと動けなかったでしょう? あれ、お嬢さんの足が竦んでいたからですよ」

 足がすくんでたんじゃない。ただ、鉄塔と空の境界線を超えようとすると、鉛のように重かったのだ。自分では持ち上げられないくらいに。まるで足が強力な磁石になってしまったかのように。

「ほら、逝きましょう。あの世はこんな場所よりずっと居心地がいいですよ」

 さあ、立って。
 手を引かれ、強引に立たされる。

「怖がらないで。ちょっと眩しいだけですよ」

 真っ白な光が差し込んだその時、天使に会えたんだと思った。

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2013. 3/10

◇Photo(元画像)/ 戦場に猫
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